ウィークリー瞑想

上沼昌雄(神学博士)のキリスト教神学エッセー

Sunday, July 23, 2006

アラモアナ・ビーチ

  賑やかなワイキキ・ビーチの隣に、ダイヤモンド・ヘッドとは反対側
になりますが、比較的静かなアラモアナ・ビーチがあります。8年前に
マキキ教会の黒田朔牧師に早朝連れてきていただいて泳いだことがあり
ます。海に浮かびながら暁の太陽を見上げたときの感動を忘れることが
できません。今回も連れてきていただきました。泳いだと言うより朝の
海に浸かっていただけですが、ビーチの脇にある屋外のシャワーを浴び
て、体がすっきりと洗われたような感じがいたしました。

 滞在の期間中2回ほど一人でビーチを歩いたり、マジック・アイラン
ドの木陰に座って、海と波を見ながら過ごしました。澄みきった海に白
い波が静かに押し寄せてきます。海がゆったりと押し寄せてくるのです
が、その波状が陸に近くなってきて押し返させられるように高波となっ
て白く輝き出すのです。そんな波に乗ろうとしているサーファーが見え
ます。ただただ繰り返し波が押し寄せてきます。絶えることなく押し寄
せてきます。それが自分の使命であるかのように押し寄せてきます。

 木陰に座っていると背後から気持ちのよい風が吹いてきます。汗ばん
だ体が少しずつ乾いていきます。近くを散歩している人も汗をかきなが
らも気持ちよさそうに通っていきます。ジョギングをしている若者もい
ます。ゆっくりゆっくりと歩いているお年寄りがいます。急いでいるわ
けでもなく、ただ風に吹かれてこの時を楽しんでいます。

 友人である故片岡さんの奥様の栄子夫人が修養会に来てくださいまし
た。修養会が終わって言ってくださったことを思い出しました。このよ
うな若い人が多い場所に来ると、いつもそのようなところにいたご主人
のことを思いだしてつらくなるのであるが、今回思い切って来ることが
できましたと言われました。35年前に片岡さんと一緒にKGKの主事
になってこのような場面に何度も共に居合わせたことを思い出しまし
た。いまは自分たちの子どもよりもっと若い人が中心になっています。
新しい波が押し寄せています。栄子夫人もそんな波に乗っているサー
ファーのようでした。

 波が押し寄せ、風が吹いているので空気が澱むことがありません。す
がすがしさが体に染み込んできます。この期間中にさらにふたつのいや
しのプロセスが進行し、また完成しつつあることを当事者たちから聞き
ました。過去の出来事は変えることはできないのですが、それにまさる
ように恵みに導かれていることを知りました。聞きながら私のなかにも
清々しい風が吹き込んできました。澱むことのない風です。

 ワイキキ・ビーチは観光客でごった返しています。そういう状況とし
ては楽しいですが、現実をしっかり踏まえて振り返るのには多少賑やか
過ぎます。アラモアナ・ビーチは地元の人も多く見受けられます。現実
に結びついていることを思い起こしてくれます。その現実を受け止めた
上で、海を見つめて波の押し寄せてくる道筋を見極め、気持ちのよい風
に身をゆだねていると、不思議に心が納得することになります。

Friday, July 21, 2006

石を枕に、夢を見る

 JCFNの15周年記念修養会でハワイに来ています。
日本からの参加者を含めて60名ほど集っています。
マキキ教会でハワイアン・ナイトで歓迎してくれました。そして次の日に
スモールグループのチームビルヂングの形成のためのゲームを、
アラモアナ・ショッピングセンターとアラモアナ・ビーチでして、会場である
カトリックの施設にバスで移って来ました。賑やかなホノルルの反対側に
山越えをしました。中腹の切り立ったところにひっそりと佇んでいるカルメル
会の修道院です。その敷地にリトリート・センターがあります。

 ここがハワイなのかと思わせるほど静かなところです。幹線道路から
斜面に下りてきています。その車の音が少し聞こえるだけです。鳥たち
が私たちを歓迎してくれました。見渡した遠く向こうには海が見えます。
空の色よりははるかにしっかりとしたブルーをしています。その海に
沿って街が立ち並んでいます。カイルアの街です。澄み切った静かな
ビーチを抱えている街のように見えます。行ってみたいのですが機会が
なさそうです。会場のどこからでもそのような景色を見下ろすことがで
きます。その海から気持ちのよい風が絶え間なく吹いてきます。

 京都の宇治に同じカルメル会の施設があります。同じ精神でこの会場
が成り立っていることが分かります。沈黙を大切にしています。人里か
ら離れて、ただ神に出会うことを切に求めています。修道院はいつも
ひっそりとしています。人のいる気配はあるのですが、その姿を見ること
があまりありません。それでも、このような場があるので皆さん自由に
使ってくださいといっているように感じます。押しつけるところがありませ
ん。ただじっと佇んでいることで何かを語っています。その深い沈黙に惹
きつけられます。

最初の朝にグループでのバイブル・スタディーがありました。創世記28章
からヤコブがエサウを避けて旅立っていく場面です。一夜を明かすために
石を取って、それを枕にして眠ったときに見た夢の話です。大変意味深い
夢です。私は夢の内容よりは、夢を見ることが神との会話として用いられ
ていることに関心を持ちました。しかも石を枕にして夢を見るのです。
石と夢が神との会話、交わりの手段なのです。

 夏目漱石が自分の名前のことで石を枕にすること語っているのを読んだ
ことがあります。ヤコブの話が関わっているとは言われていなかったように
思います。ただ人生の旅をしながら時には石を枕にして横になり、そこで
思い浮かんだことを記していくことが自分の仕事のように感じているという
文面であったように思います。

 昼前に聖餐式がありました。その前に一人ひとりが自分の過去を振り
返って、示されたことを石に書いて、それを祭壇に捧げることをしました。
ヤコブが、自分が枕にした石を柱として立てたことを私たちも追体験
したのです。私は迷わずに「石を枕に、夢を見る」と書きました。聖餐
式の前にそれを石の柱として捧げました。それを修養会の終わりにまた
用いるのだと思います。

 どうしてそんなことを書いたのか不思議です。現実に石を枕にするよ
うなことはありません。一年に何度か旅をしますので枕はよく変わりま
す。夢を見ますが、ヤコブのような夢は見たこともありません。意識の
どこかに隠れていることが、しかも忘れていたと思うことが、全く思い
がけないフォーマットで夢になって出てきます。覚えておこうと思って
もすぐに忘れてしまいます。夢にどのような意味があるのかそのような
分析をしたことはありません。それでも意味があることは分かります。

 神はこの時点で夢を通して私に何かを語ろうとしているのだろうか。
自覚の膜で張られている私の意識が眠ることが解き放たれて、無自覚の
状態になるのを待って神は語ろうとしているのだろうか。覚醒している
ときに把握したことは、確かであるようで実際には不確かであることを
夢を通して教えようとしているのだろうか。ヤコブのように夢で明確に
何かを示し、何かを語ろうとしているのであろうか。

 「石を枕に、夢を見る。」ハワイに来て、もうひとつ不思議な旅に出
かけているような気がしています。

Tuesday, July 04, 2006

アメリカの独立祭

「アメリカの独立祭」

 今日はアメリカの独立祭(Independent Day)の日です。アメリ カが
国として独立した記念日です。人々は4th of Julyと呼んで います。
あまり歴史的な重みを感じません。ともかく仕事も休みで家族や友人たち
とバーベキューをしながら楽しみます。暗くなってから、といっても夏時間
を利用しているの、9時くらいからあちこちで本格的な花火が上がってき
ます。カリフォルニアでは山火事の心配があるので、 個人での花火は
かなり制限されているか、場所によっては禁止されています。
またハイウエイーには「酒飲み運転、警察に通報を」という電子掲示板が
出ています。それほどアメリカ人にとってお祭りの日なのです。記念する
かのようにスペースシャトル・ディスカバリーが打ち上げられました。

 世界史を勉強したのですが、ほとんどヨーロッパの歴史でした。すで
に留学の時も入れると結構長い間アメリカに住んでいるのですが、この
国の歴史を知らないままでいます。ヨーロッパに比べたら歴史があるの
かとも言えます。日本に比べても同じことが言えます。たかが200年
ちょっとの歴史です。しかしこの200年ちょっとの歴史がまさにアメ
リカです。過去へのこだわりがないことと、そのぶん国の成り立ちが明
確であるからです。アメリカはこのような理念で国が成り立ち、その理
念を貫くことがこの国のあり方だと言うことがはっきりしています。そ
れがなかったら成り立ち得ない国です。それは自由と責任です。

 15年前に自分で自分の家を建てることになりました。どのような家
を建てることも自由ですが、これだけの最低の規則を守ってくださいと
いう理念がはっきりしています。その最低の規則をクリアしていれば、
後はどのような家でも立てることができます。誰からも文句は言われま
せん。しかも自分で自分の家を建てることに関してはライセンスもいら
ないのです。それでも土台から配線、配管、その都度検査を通過しなけ
れば次に進むことはできません。はっきりしています。それなりに結構
面倒なことです。

 材料も大工さんたちが買うのと同じお店です。同じものを使っていま
す。もちろん規模とスピードは違います。私は人に聞きながら、お店で
実物を組み立てながら、検査に来た担当者に逆に聞きながら、牛歩のよ
うなスピードで3年半かかって何とか終えることができました。誰も私
がやっていることに口を挟んだりしません。聞けば喜んで教えてくれま
す。時にはまったく初歩的なことも聞きました。いやな顔をしないで教
えてくれます。そんな私をアメリカ人として受け入れてくれました。

 ミニストリーの法人格の取得を始めたときにも、これだけの規則を
守っていれば後はどのようなミニストリーでも可能であることが分かり
ました。私の場合には不特定多数を対象としているのですが、アメリカ
だけでなくて世界中の日本人のためであると書類に書いてそれで通じて
しまいました。法人としての最低の規則も毎年財務報告が求められる
しっかりしたものです。

 自由と責任は結構緊張をします。どこかに張りつめて思いがあって生
きています。もちろんリラックスして自由に考えて誰も思いつかないこ
ともすることができます。アメリカはそのための許容量がかなりありま
す。だからといって何でもできるわけでもありません。そこには規則で
はなくて、深い神の導きが必要です。自由は神のわざを促します。それ
でも思いを越えたところからの導きが必要です。

 国のなりわい、時の流れに神はどのように関わっているのだろうか。
神のわざは国の境、時の移りとは関係なしになされていると思いがちで
す。それで改めて国境を誰が定め、時の動きを誰が定めているのだろう
か問うてみたくなります。神であると観念としては分かっています。そ
れでも現実にいまの国の境と時の流れのなかで、神を信じていることが
どのような意味があるのだろうと思うと、立ち止まって考えてしまいま
す。

 日本人としてアメリカに住んでいて、家族としてアメリカの社会にか
なり溶け込んでいて、それでいてミニストリーとしては日本人を対象に
して、さて、なぜ、どうしてと今日アメリカの独立祭を迎えて考えてい
ます。そんなことを考えてもどこにも行かないのですが、どこにいるか
は少しでも分かってきます。どこから来ているのかはさらに明確になっ
てきます。

Monday, July 03, 2006

神学モノローグ「教会の高齢化と大村晴雄先生」

 今回の日本での奉仕の間に教会の高齢化のことが話題になり、現実を
みせられることになった。教会の平均年齢が60歳を超えていて若返り
を願って若い牧師を後任として捜しているという友人の牧師、初期の指
導者が相変わらず実権を握ってしまっているという団体、一度は退いて
いながら誰もいなからと言って初期の指導者が戻ってきている団体、自
分より年寄りの牧師は辞めた方がいいと言って地方伝道にでていった友
人の牧師、新入生がゼロといういくつかの神学校、牧師になったらお年
寄りの世話だけになっていますのでなり手がいないという神学生と、結
構な割で会話にでてきた。

 教会の高齢化は日本の社会の高齢会にあわせて避けられない。ただ次
の層の人たち、若い世代の人たちが同じような割で教会に増えていない
と言うことで、高齢化現象が一挙に目立ってきたのかも知れない。教会
が年輩の方々に深い配慮を示していくことはまさに教会としての使命で
ある。ただそのような年代の人が相変わらず教会や団体の上で支配権を
ふるったりしていると大きな弊害をもたらす。閉鎖的になり、慢心をも
たらす。その隙をねらわれるような出来事が起きている。

 アメリカでもベビー・ブーマーの世代が定年の年になってきて高齢化
が問題になっている。それでも次の世代の指導者がでてきている。若い
人たちの霊的動きも見える。指導者も退くことをよしとしている。そう
でない場合も勿論ある。それでも社会も教会もそれなりの活力を保って
いる。変化を受容している。日本のある団体の人と話をして気づいたこ
とであるが、その団体の初期に宣教師の指導でいくつかの方向性がでて
きているのであるが、日本ではそれを守ることが聖書的と思われている
が、もとのアメリカの団体ではすでに新しい方向で動いていることがあ
る。何とも言えない落差を感じさせられた。

 私もJCFNと言う留学生を中心とした働きに理事として関わって
いてその限りで若い人たちと接する機会をいただいている。若い人たち
が決して求めていないのではない。むしろ真剣に求めている。ただ教会
が提供するものが彼らの求めに応じ切れていない面がある。彼らも神の
ために一生懸命に仕えたいと願っている。何か生かし切れていないとこ
ろがある。指導者の交代をうまくいって、教会全体が生きているところ
も知っている。まれであるがないわけでない。

 若い人たちを獲得するためにプログラムを組んだらば解決することで
もない。それよりも、何かいままでの福音派の教会が持ってきた神学の
行き詰まりのように思えて仕方がない。神学の内容は聖書から外れてい
るわけでない。しかし時代の変化についていけなくなっている。ただポ
スト・モダンを批判しているだけの神学では若い人たちを捉えることは
できない。彼らはすでにその流れで生きてきているのである。新しい動
きを受け入れられない保守性が身に付いてしまった。自分たちのしてき
たことだけを正当化するメンタリティーになってしまった。

 96歳ななられた大村晴雄先生を訪ねることができた。春先に自
宅で転ばれて腰の骨を折られた。息子さんの関係で宇都宮のリハビリセ
ンターに入っておられた。秋田に行く途中で立ち寄る旨を伝えていただ
いた。そして待っていてくださった。センターなのでいつものようには
ゆっくりと話はできなかった。それでも他の人はテレビに釘付けのよう
な状態なのに、先生はテレビを観ないので怪訝柄れたので、「日記を書
いています」と返事をしたと言う。また食事の時の隣の人が自分が如何
に高齢であるかを自慢げにして先生に年を聞いてきたので、「いくつに
見えますか」と聞いて、その人が「75歳ですか」と言ったとい
う。96歳と知って先生の顔をしげしげと眺めて「観音様のよう
だ」と言ったという。

 そんな笑い話をしながら、先生はおもむろに一冊の本を取りだした。
施設なのでこの本一冊だけも持ってきてもらって読んでいるという。そ
れはイザヤ書のユダヤ人が書いた註解書であった。先生はある箇所の意
味を知りたくて読んでいたのであるが、註解書に書いていないが「上沼
君、どういう意味?」と聞いてこられた。一瞬返事に窮してしまった。
それよりも、神の真理を生涯掛けて求めていく謙虚さと真摯さに打ちの
めされた。何か私のなかで沈んでいたものが打ち破られた思いがした。

 かつて先生との会話で「カトリックは存在論で、プロテスタントは認
識論ですか」と伺って、「そうだね」と言われたことを思い出した。真
理をすでに捉えたと言って止まってしまうことをしない。あくまで捉え
ようと追い求めている。捉えたと思うことをいつも聖書で批判してい
く。改革を求めていく。認識する自己を神の光りの前にさらけ出してい
く。いつも開かれている。新しい恵みに溢れている。大村先生の専門で
ある近世哲学の始まりであるプロテスタントの精神を目のあたりにみせ
られた。

 日本のプロテスタントの福音派の教会は死んではならない。息を吹き
返さなければならない。若手の指導者は現状を打破するために殉教を覚
悟しなければならない。ただ待っていたら取り返しがつかなくなる。い
ま動かなければ時を失ってしまう。キリストの教会のために死ぬ覚悟で
ある。新しい恵みを届けていく使命である。新しい息吹を吹き込んでい
く活力である。