ファンタジー
神学モノローグ 2006年1月30日(月)
映画「ナルニア国物語・1章・ライオンと魔女」を妻と一緒に観てきた。疎開先のイギリスの片田舎の館の空き部屋にあった洋服だんすを通して、不思議の国であるナルニア国に4人の子どもたちが引き込まれる物語である。ルイスが半世紀前に書いたファンタジー物語の映画化である。物語りは今に至るまで読み継がれている。そして映画化された。
ファンタジーは仮想の世界である。それでいながら現実を知らされる。現実をファンタジーで描くことで、時代や文化を越えて、多くの人の心を呼び覚ましていく。そこに悪があり、悪に惹かれる心があり、闘いがあり、愛があり、犠牲があり、死があり、勝利がある。誰もが人生で経験することをファンタジーで描くことで、共有感覚が広がっていく。ファンタジーで人生を再体験し、記憶のなかに隠れている意識と無意識の境の人生絵巻を再編集する。
子どもたちが洋服だんすを通してファンタジーの世界に入っていくと言うことで、似たような筋立てをどこかで読んだ気がした。それで、村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を調べてみた。見つけることができた。同じように洋服だんすを通してワンダーランドに入っているのである。そこにも悪があり、闘いがあり、愛があり、死がある。しかしそこはまだ、意識と無意識の中間地点に過ぎない。その先に心を失った「世界の終わり」がある。その先にと言っても、物理的にも、時間的にも連動しているわけでない。それでいてその終わりの世界でコントロールされている。ワンダーランドはその終わりの世界を生き返られるための中間点でもある。
著者自身も言っているのであるが、この本が出たときには言葉の遊びに過ぎないと言う酷評を受けたが、徐々にその意味は人の心をとらえている。英訳されている。ワンダーランドは東京の地下鉄のさらに下の闇の世界の話である。しかしそこで展開されているファンタジーは英語圏の人たちにも充分届いている。高い評価を得ている。
ある友人が、私からファンタジーのことを聞くことになるとは思っていなかった、とメールをくれた。私も書くことになるとは思っていなかった。ファンタジーはアレゴリーでもたとえでもない。全く仮想の世界である。しかし物語を持っている。そこには現実を凝縮したパノラマが展開される。悪に支配されている氷の世界である。凍り付くような心を失った「世界の終わり」である。鳥たちは終わりの世界を乗り越える。ビーバーが天使のように子どもたちを助ける。ライオンはひとりの子どもを悪の手から解放するために犠牲に捧げられる。
聖書の世界をファンタジーで描くことができる。ファンタジーを通して聖書の世界にはいることができる。イエスは神の国の奥義をたとえで語っている。たとえでなければ語ることができなかった。雅歌は夫婦の愛の歌を、キリストとクリスチャンの愛の歌のように語っている。聖書には「比喩」(ガラテヤ4:24、ヘブル9:9)があり、「型」(ヘブル9:24、11:19)がある。
私たちはと言っていいのだと思うが、聖書から原則を引き出して命題を打ち出し、そのことを分かりやすく説明するために例話を用いることを、説教の手法として教えられてきた。この場合の例話はメッセージのための手段に過ぎない。聖書の世界に必ずしも導かない。説教者の伝達方法で終わってしまう。ナルニア国物語は聖書の世界の再現であり、私たちの心の投影でもある。聖書の世界と私たちの心とを結びつける仮想の世界である。仮想の世界なので心は自由に結びつくことができる。たとえの世界も同じような作用がある。たとえを聞いた私たちの心が自由に展開していく。想像をかき立ててくれる。
ナルニア国物語で、ライオンと魔女がふたりだけで話をする場面がある。その意味合いは明確なのであるが、その場でどのような話がなされたのかは記されていない。映画でも何のシーンもない。それで私のなかでどのような会話がなされたのか、想像が広がっている。ライオンは魔女と取引をしたのだろうか。そのような場面は聖書から可能なのだろうか。ライオンは自分の使命をどのようにとらえていたのだろうか。等々。
このような想像を含めたやり取りが私のなかで広がっている。聖書のなかでは明確に記されていることと、それ以上何も記されていないことがおり混じっている。その場面にイメージを膨らませながら神に語りかけるような会話を始めている。その会話は自分の心との会話でもある。ダイアローグであり、モノローグである。ファンタジーという世界が、私のなかの何かを押し広げているのかも知れない。
上沼昌雄記