この5月に日本での奉仕を予定しています。妻の闘病等があって一年ぶ
りとなります。今回のスケジュールのなかに3回目になる牧師のセミ ナー
があります。友人の牧師が近隣の先生方に呼びかけてくださり、1 2名前
後の集いをしています。京都・宇治のカルメル会の修道院の「黙想の家」を
借りて一泊で行っています。過去2回は「三位一体の神との交わりとしての
霊性」「霊性神学入門」と言うテーマでした。そして今回は「神学と霊性の一
致―エペソ書を基にして」と言うことで予定しています。
このセミナーは全くのボランティアの集いです。どこにも所属していません。
友人の牧師が呼びかけて集まってくださっています。案内で次のように紹介
してくれています。「従来の理性的な聖書理解に、瞑想的・観想的な理解を
加えて、み言葉を深く味わい、み言葉の新しい発見と喜びを体験することが
できます。」そして「毎回少しずつ参加者が加わり、内容も静かに、神学的で
あり、聖書的であり、霊的に深くめられ ております」と加えてくれています。
この牧師とは神学校に入学した最初の1年同室となりました。机を並べ、
上下のベッドで寝起きして神学生としての生活を共にしました。大変剛毅で、
一本気な方です。その勢いは時には面食らうこともありました。しかし、神
に仕える姿勢は大木のように真っ直ぐと上に向いたものです。気持ちのよ
いものでした。うらやましいものでした。今からもう 38年も前のことです。
昔の話です。
気が合って仲良くしていたというわけではありませんでした。ですので卒
業してそれぞれの奉仕に励んでいました。昔の同室者、同窓生と言うこと
で特別な関わりはありませんでした。私は渡米をしてアメリカをベースにし
た奉仕を始めました。そんなことでこの先生との再会などは全く予想もして
いませんでした。数年前にカナダのリジェント大学霊性神学教授のフース
トン先生の牧師のセミナーが軽井沢でありました。この方がきておりました。
霊性のことに関心を持たれているのだろうかと 多少の疑いもありました。
セミナーが終わる頃に私のところに来てくださいました。友として一緒に
祈り、交わりたいのだと言うことを言われました。という言うより、友として
交わりを持つことにするからそのつもりでいてほしいとい う一方的な宣言
にも似ていました。正直なところその真摯さは感じまし たが、どうなるのか
は疑心暗鬼でした。向こうも私が本気で出ていくかは同じ思いだったのか
も知れません。
それからに2,3年、日本に伺うごとにお茶を飲んだり、食事をしたり、
散歩をしたりしてそれぞれの家族や、思いを分かち合うことができました。
奥様とも語り合うことができました。不思議なのですが信頼が生まれ、交
わりが深まってきました。教会の奉仕にも招いてくださり、 3年前からこ
のセミナーを設定してくれました。
軽井沢のセミナーで私を友と呼んで招いてくださった時のことを思い出し
ます。迎入れてくれたのです。まさにイエスが弟子たちを招き入れたのと
同じです。「わたしはあなたがたを友と呼びます。なぜなら父から聞いた
ことをみな、あなたがたに知らせたからです。」(ヨハネ1 5:15)
そのセミナーの講師であったフーストン先生はまさに『神と の友情』と
いう本を書いています。
この方は私を友と呼んで、ご自分の神との世界をみせてくれたのです。
そこに私がに入ることを許してくれたのです。心の格闘を分かち合って
くれたのです。牧会の痛みを語ってくれたのです。奥様、子ども さんたち
への愛を教えてくれたのです。それで私も自分の心の葛藤を語 ることが
できました。ミニストリーの苦悩を話すことができました。私の家族への
思いも分かち合うことができました。そのことで私の世界に重しが付いて
きました。心が深まってきました。ミニストリーが広がっ てきました。