ウィークリー瞑想

上沼昌雄(神学博士)のキリスト教神学エッセー

Wednesday, May 24, 2006

共感、驚き、日本

 5月5日に日本に入りました。3週間目を迎えています。新緑の日本の
各地を巡りながら、多くの方との交わりをいただいています。移動で忙し
くしているのと、交わりのなかで考えさせられることが多くて、立ち止まっ
てまとめることができないでいます。しかし心に留まっている地、人、言葉
があります。交わりのなかで出会った笑顔、言葉、仕草が思い出されます。
私のなかでうごめいています。何かを生み出そうとしてもがいています。

 訪ねた地:
 石神井公園、東久留米、池袋、立川、上山、山形、岩野、十文字、
 秋 田、前橋、宇都宮、仙台、酒田、宇治、大阪、堺(予定)
 
 キーワード:
 JCFN、帰国者、若者の心、ナルニア国物語、ファンタジー、入り口、
 衣装ダンス、共鳴、氷付い た世界、氷付いた心、指輪物語、       
 ネパール、自由、繋がり、故郷、大村晴雄先生、殉教者、
 歌、阿部次郎、ダニー・ボーイ、You Raise Me Up、中島みゆ き、
 村上春樹、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』       
 花の日、父を語る、アバ父よ、心の目、大学紛争、マルクス主義、
 ルオーの「郊外のイエス」、高齢者教会、少子化、宇治カルメル会、
 沈黙、三位一体の神の賛歌、韓国人牧師、霊性セミ ナー、闇の奥、
 共感、感性、殉教者の神学、霊性神学、エペソ書

 次に何が出てくるのかを楽しみに旅を続けています。出会いであり、
共感であり、驚きです。

Friday, May 12, 2006

友と呼ぶこと

 この5月に日本での奉仕を予定しています。妻の闘病等があって一年ぶ
りとなります。今回のスケジュールのなかに3回目になる牧師のセミ ナー
があります。友人の牧師が近隣の先生方に呼びかけてくださり、1 2名前
後の集いをしています。京都・宇治のカルメル会の修道院の「黙想の家」を
借りて一泊で行っています。過去2回は「三位一体の神との交わりとしての
霊性」「霊性神学入門」と言うテーマでした。そして今回は「神学と霊性の一
致―エペソ書を基にして」と言うことで予定しています。
 このセミナーは全くのボランティアの集いです。どこにも所属していません。
友人の牧師が呼びかけて集まってくださっています。案内で次のように紹介
してくれています。「従来の理性的な聖書理解に、瞑想的・観想的な理解を
加えて、み言葉を深く味わい、み言葉の新しい発見と喜びを体験することが
できます。」そして「毎回少しずつ参加者が加わり、内容も静かに、神学的で
あり、聖書的であり、霊的に深くめられ ております」と加えてくれています。
 この牧師とは神学校に入学した最初の1年同室となりました。机を並べ、
上下のベッドで寝起きして神学生としての生活を共にしました。大変剛毅で、
一本気な方です。その勢いは時には面食らうこともありました。しかし、神
に仕える姿勢は大木のように真っ直ぐと上に向いたものです。気持ちのよ
いものでした。うらやましいものでした。今からもう 38年も前のことです。
昔の話です。

 気が合って仲良くしていたというわけではありませんでした。ですので卒
業してそれぞれの奉仕に励んでいました。昔の同室者、同窓生と言うこと
で特別な関わりはありませんでした。私は渡米をしてアメリカをベースにし
た奉仕を始めました。そんなことでこの先生との再会などは全く予想もして
いませんでした。数年前にカナダのリジェント大学霊性神学教授のフース
トン先生の牧師のセミナーが軽井沢でありました。この方がきておりました。
霊性のことに関心を持たれているのだろうかと 多少の疑いもありました。
 セミナーが終わる頃に私のところに来てくださいました。友として一緒に
祈り、交わりたいのだと言うことを言われました。という言うより、友として
交わりを持つことにするからそのつもりでいてほしいとい う一方的な宣言
にも似ていました。正直なところその真摯さは感じまし たが、どうなるのか
は疑心暗鬼でした。向こうも私が本気で出ていくかは同じ思いだったのか
も知れません。
 それからに2,3年、日本に伺うごとにお茶を飲んだり、食事をしたり、
散歩をしたりしてそれぞれの家族や、思いを分かち合うことができました。
奥様とも語り合うことができました。不思議なのですが信頼が生まれ、交
わりが深まってきました。教会の奉仕にも招いてくださり、 3年前からこ
のセミナーを設定してくれました。
 
 軽井沢のセミナーで私を友と呼んで招いてくださった時のことを思い出し
ます。迎入れてくれたのです。まさにイエスが弟子たちを招き入れたのと
同じです。「わたしはあなたがたを友と呼びます。なぜなら父から聞いた
ことをみな、あなたがたに知らせたからです。」(ヨハネ1 5:15)
そのセミナーの講師であったフーストン先生はまさに『神と の友情』と
いう本を書いています。
 この方は私を友と呼んで、ご自分の神との世界をみせてくれたのです。
そこに私がに入ることを許してくれたのです。心の格闘を分かち合って
くれたのです。牧会の痛みを語ってくれたのです。奥様、子ども さんたち
への愛を教えてくれたのです。それで私も自分の心の葛藤を語 ることが
できました。ミニストリーの苦悩を話すことができました。私の家族への
思いも分かち合うことができました。そのことで私の世界に重しが付いて
きました。心が深まってきました。ミニストリーが広がっ てきました。

Saturday, May 06, 2006

「痛みと苦しみの現実」

 先週末に、90歳を越えた方の葬儀に妻と一緒に出席しました。 車で一
時間ほどのロサンゼルス郊外の標高700メートルほどの山の中腹にある
街の教会でした。この方の娘さんご夫妻が、16年前に私たちが家族で北
カルフォルニアの山の小さな街に移り住んだときの教会の牧師夫婦でした。
忠実な牧会を今も別の小さな教会でされていま す。ずっと親しくしています。
この牧師の奥様で、亡くなられた方の娘 さんが癌でこの数年闘病をしてい
ます。一週間ほど前にも大きな手術を されました。それでお父様の葬儀に
も出席できないと言うことが分か り、私たちが代理のように出席しました。
 この奥様の従姉妹、なくなられた方の姪の方が日本への宣教師をされて
いました。ファミリー全体が宣教の思いを強く持たれていることが分 かりま
す。亡くなられた方の奥様で、癌の闘病をしている方のお母さんとは一、二
度お会いしています。私の名前も覚えてくれていました。お嬢さんも癌で厳
しい状態にあるなかでご主人を亡くされました。妻が後で教えてくれました。
娘が召される前に主人を先に送りたいと祈ってきたと言うことです。年齢的
にはご自分がいつ召されてもいい年です。そのかなで痛みと死の現実に直
面し、直視し、受諾しています。静けさが あり、威厳があります。

 ジョージ・マクドナルドの言葉に目が留まりました。「私たちがことの現実を
最も良く知っているときは、神を最も必要としていることに気づき、神に最も
信頼できるときである。どのようなかたちでも、どのよ うな種類でも、どのよ
うなあり方でもその容赦のない現実を認めることは、私たちの心をさらによ
り現実に向け、より高度な、よい深遠な存在へと導いてくれる。」

 しばらく前になりますが、ある男性集会でひとりの男性と知り合いま した。
奥様とお嬢さんを交通事故で亡くされ、ご自分も癌であることが分かり、厳
しい状態におかれていました。集会では痛みを覚えながら、 自分にとって
一番つらいことは父親のことですと言われました。しばらく音信がありませ
んでした。最近メールをいただいています。私のモノ ローグに鋭いレスポ
ンスを書いてくれます。教えられています。闘病は続いています。
 3月14日のメールで、映画『パッション』でイエスが十 字架を担ぎながら
むち打たれる場面が張ってありました。「痛みは投薬では納まらないので、
必死のリハビリで、歩く中、痛みが引いていま す。運動を行なうと最初は
激痛が走りますが、10分程度我慢する ことで、徐々に減少します。、、、
上の画像は僕のPCのデスク トップの画面です。毎回、PCを開ける事に
よりこの画像が、僕の痛みの何であるかを告げてます。傷だらけの痩せ
細った体で、重い十字架を担ぐ姿を見ているだけで、現在の僕はキリスト
により慰めを受けている様に感じられます。痛みを堪えて頑張らねばとの
意欲が湧くので す。今の僕に取ってはかなりの救いでもあります。」
 想像を絶する痛みが、キリストの痛みに結びつけています。どうしてそう
なるのかは分かりません。ただ痛みと苦しみの現実を見つめているときに、
キリストの苦しみが思い出させられるのです。いつもはどこかに押しやられ、
隠されているように思うキリストの苦しみの現実に不思議に心が向いてい
きます。そうでありたいと願います。「神が多くの子たちを栄光に導くのに、
彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万
物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであっ
たのです。」(ヘブル2:10)

Thursday, May 04, 2006

「時代と神学」

 前回のモノローグ「時代・中島みゆき」で、彼女が70年半ばにデビュー
して、80年代、90年代、2000年代とそれぞれの世代でチャート1位に
なりながら活躍していることと、その間、福音主義神学を志す者として
それぞれの世代にどのように関わってきたのか書いた。60年代は自由
主義神学との闘いであった、70年 代は、76年にアメリカでカーター大統
領が誕生したときに雑誌 『タイム』が「福音主義者の時代」と言ったように、
漸進の時であっ た。80年代は、聖書の無誤性の課題に直面したときで
あった。9 0年代は霊性神学の必要を確認したときであった。2000年代
はすでに主流になった福音主義のこれからの方向を定めていく模索の時
とも 言える。
 このことを書いて、昨年11月28日のモノローグ「モダンとポスト・モダン
と福音主義」で、「福音主義神学は時代の産物である。聖書は神の作品
である」と書いたのを思いだした。アメリカの福音的な神学校が、ポスト・
モダンの挑戦を真摯に受け止めてシフトを変えてきているという、クリス
チャニティー・ツディの記事を紹介しながら 書いたものである。
 福音主義神学に身を置き、直接に関わってきたのは60年代からであ
った。しかし歴史を振り返り、福音主義神学の起源を遡っていく と、福音
主義神学の枠がやはり時代のなかで築き上げられていることが分かる。
時代を超えた神学がはたしてあるのだろうかと思わされる。神学はどの
ように考えても人間のものである。聖書は神のものである。神のことばで
ある聖書に直面しながらそれぞれの時代で人々が格闘してき たものが
神学である。
 ルターに始まる宗教改革者の信仰義認と十字架の神学は福音の本質
を明らかにした。福音をよみがえらせた。同時に後のプロテスタント神学
の枠を決定してきた。義認論を中心に築かれた救済論と、十字架を中心
にみるキリスト論は、初代教会のように和解論を中心にみる救済論と、
受肉から十字架、復活、昇天までを取り入れる包括的なキリスト論とは、
神学全体の構成が異なってくる。世界観が違っている。生き方が違う。
どちらも聖書を元にしている。どちらも聖書を100%取り入れているわけ
でない。
 プロテスタント神学は後に啓蒙思想を通過しなければならなかった。
自由主義神学はその思想を受け入れた。福音主義神学は自由主義神学に
対抗するために同じ理性で武装しなければならなかった。理性中心の福音
主義神学は避けることができなかった。20世紀の終わりに霊性神学の見直
しが出てきた。雅歌は初代教会で大切なものとして取り上げ られていた。
福音主義神学ではほとんど取り上げられてこなかった。
 神学は相対的である。聖書は絶対的である。聖書を100%取り入れている
神学はない。神学はあるテーマを前提にしてその上で論理的な整合性を求
めていく。その時に聖書のあることが落とされてしまい、 見逃されてしまう。
それでいて神学は排他的である。神学校も排他的である。自分たちの前提と
その上に組み立てた聖書理解と神学を最善と思い、それを認めないものを切
り捨てていく。批判していく。聖書は包括 的である。
 今の神学の課題は、自分の拠り立っている神学が聖書の何を見落と し、
何を見逃しているかを歴史を振り返ってみていくことである。教派の神学を
認めつつ、その限界を謙虚に認めていくことである。アメリカでの福音派の
進展は教派の神学によっているのでない。福音派の神学校が21世紀にな
って神学の歴史を振り返りながら模索をしている。 どのように進んでいくの
か楽しみである。
神学はそれぞれの時代で生き ている。何かを生み出そうとして息づいてい
る。神学は楽しいものであ る。