20代社会人の集い
ウイークリー瞑想 2005年4月25日(月)
昨日の夕方、イラクから戻っていた長男義樹が再度ユースのグループで説教をするというので、妻と二人で1時間15分ほどドライブして聴きに行きました。イラクに行く前に何度か説教をしていてそれをCDで聴いていましたが、良い機会と思い本人の承諾を得て集会に参加させていただきました。基地の近くの町の教会で、このグループは大学卒業後から29歳までの社会人の集いと言うことです。Twenty Somethingと自分たちを呼んでいます。日曜の夕方に百名ほどの若人が集まっていました。
マルコ2章から取税人レビが「わたしについて来なさい」というイエスのことばに従ったことと、イエスが彼の家で取税人や罪人たちと一緒に食事をしていたところから話をして、テーブルごとに別れていた小グループのディスカッションをリードしていました。「わたしについて来なさい」と言われたイエスの視点として、神であるキリストが人としてこの世に来てくださった受肉に焦点をあわせていました。
昨年彼とキリストの受肉のことを話し合ったのを思い出しました。受肉、十字架、復活、昇天の全体がキリスト論のポイントで、十字架だけに焦点をあわせすぎている西洋の神学の欠陥のようなことを話し合いました。彼がこのポイントをよく理解していることが話を聞きながら分かりました。私も、イエスが取税人や罪人たちと食事をしていたことが受肉の延長線上ですんなりと納得できました。
「わたしについて来なさい」といわれたイエスが私たちと同じ肉を持ってくださったので、肉を持つ私たちの弱さや苦しみや罪をよく知っていました。罪人たちと食事をすることはイエスにとって自然なことでした。私たちのまっただ中に来てくださったのです。遠くから私たちを招いておられるのではないのです。罪に苦しみ、弱さに落胆している私たちの真ん中に来て「わたしと一緒に歩こう」と言ってくださっているのです。その道は十字架の道ですが、イエスと一緒に歩くことができるのです。
日曜の夕方でリラックスしたスタイルでみな来ているので社会人としてどのような生活をしているのか分かりませんが、それなりの収入を得て、生活はすでに安定しているのかも知れません。しかし霊的な意味では満たされない思いを持っているのではないかと想像します。子どもたち3人とも20代の社会人になっていて彼らから同世代の人たちの悩みや苦闘を聞くことがあります。
工場か倉庫のような建物の集会場の後ろで妻と二人で集会の様子を伺いながら、まさに天から下ってこのような若人の真ん中で「わたしについて来なさい」と招いておられるイエスのことばが私のなかにも静かに届いてきました。
上沼昌雄記
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