ウィークリー瞑想

上沼昌雄(神学博士)のキリスト教神学エッセー

Saturday, December 30, 2006

秋田から届いた霊の歌

 9月に『夫婦で奏でる霊の歌ー雅歌に見る男女の対話』を出すことが
できました。10月と11月とシンガポールと日本で奉仕が許されまし
た。いくつかのセミナーでこのテーマをさらに取り上げることになりま
した。10月の終わりに保守バプテスト秋田伝道隊のセミナーを許され
ました。初めての人、何度目かの人と雅歌のたとえを紐解きながら、互
いの存在を花と木でたとえることをしました。
 その報告が伝道隊の隊報『若杉』に載っていました。秋田大医学部耳
鼻科教授の石川和夫さんが自分たち夫婦のことを書いています。妻と読
みながらふたりとも笑いがこみ上げてきました。率直で、ユーモアにあ
ふれ、機知にあふれ、霊的勇気が満ちています。
 「霊の歌」についての本を書いても、それでは自分たちはどんな霊の
歌があるのかと妻から問われるのが現実です。不協和音も霊の歌だと言
い聞かせています。そんななか秋田から霊の歌が届いてきました。この
年の終わりを石川さんご夫妻の霊の歌を聴きつつ迎えています。
  隊報の編集長と石川さんに許可をいただき以下に掲載いたし
ます。
 よいお年をお迎えください。感謝とともに。上沼昌雄
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「伝道隊セミナーに参加して」秋田聖書バプテスト教会 石川和夫

 今回の学びは、先回の学びを少し発展させて、雅歌の学びに基づいて
夫婦について更に考えることにあった。
 私どもは、結婚して来年で30年を迎える。独身で過ごした時間より
も結婚生活の方が少し長くなった。 パソコンに入っている結婚式当時
の写真をみると、昔から今のような顔だったと思っているのが錯覚であ
ることに気付く。最近30年振りに会った友人の顔をみて唖然とした。
 頭の髪の毛は黒い森からごま塩の林に変化し、顔面の皺が幾重にも重
なって見える。多分友人も自分をみて同じように感じているに違いな
い。 それほどの長時間私達は二人で生活してきたのだなと思う。 こ
の間、色々なことがあった。時々、激しい口論もしながら、自分たちに
課せられた社会的ノルマと教会に仕えてきたと思う。 そして、今や妻
のいない家庭なんて考えることもできないくらいだ。 妻の家に住まわ
せてもらっているような感覚ですらある。それほど、依存もしている。
 30年近くなって、お互いを理解できているのかというと、さっぱり
である。 理解力が不足しているのか、時々、話し合っても、妻が何を
考えているのか、解らなくなる。 何回か努力もしたが、いまだに解ら
ずじまいだ。 妻の方も、どうもわかってもらおうとすること自体無理
であることを随分前から悟っているようである。
 「妻を花にたとえると何でしょう。」という質問がなされた。 これ
は、私にとっては難問だ。 なぜなら、知っている花の名前の数が、可
成り限られているからである。 だから、最初のセミナーでは、「朝
顔」などといったが、今度はいや違う「薔薇かな」などと言ったりもす
る。 一つの花でたとえることが、僕にはできないのだ。 名前は知ら
ないが、色々な花に見えてもくる。 そしてその総てが、私の妻であ
る。 それに対して、あなたの夫を木でたとえると何でしょうという質
問がなされると、妻は、嬉々として、即座に「私の夫は、榊です。」
と。その心はというと「飾っておくだけで、何の役にも立たない。」か
らだと。 何時も、ストレートに話す妻である。滅多に褒め言葉を口に
しない。 日常生活の中で、夫への不満を口にする言葉を思い返すと、
説明を聞いて、矢張りそうかと変に納得する。しかし、そればかりでは
ないだろう、もっと、他の木のイメージも持てるであろうと思い込むの
は、儚い抵抗か。
 生まれも育ちも年も性も違う二人が、ある時に出会って、それぞれ個
別に神に聞き、結婚を決意し、神と人との前で誓約してスタートした結
婚生活である。お互いの違いと、完璧に理解し合えるのは無理であるこ
とを認めながら、御国に導かれるまで、言いたい放題、二人の心を何時
もオープンにしながらの歩みがこれからも続けられると思う。お互いを
認めるのは、神に自分が認められているという事実と重なってくる。
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Friday, December 22, 2006

ギリシャ正教会とキリストの受肉

「ギリシャ正教会とキリストの受肉」2006年12月8日(金)

 雑誌『クリスチャニティー・ツディ』の12月号は、クリスマスにち
なんで、最近アメリカで映画になったキリストの「降誕物語」のこと
と、その脚本を書いた人のこと特集している。それとは別に「21世紀
はギリシャ正教会の時代か?」という記事が載っている。記事を書いた
人はギリシャ正教会のなかで育ち、高校時代に福音派の友人を通してキ
リストとの出会いを経験している。いまその両面に働きかけながらギリ
シャ正教会が福音の力で活性化することを、福音派がギリシャ正教会の
宝を生かして豊かになることを願っている。
 著者の視点は記事を読んでいただくと分かる。ここでは自分なりに思
わされていることをまとめてみる。というのは結構長い間、ギリシャ正
教会が拠って立っている初代教会の神学といえる、ニケア信条、その後
のカパドキアの三教父の神学を自分なりに学んできたからである。拙書
『夫婦で奏でる霊の歌―雅歌に見る男女の対話』で引用しているニュッ
サのグレゴリオスはそのひとりである。三つの視点でまとめてみる。

 第一は、福音派は自分たちの神学的な枠がそのまま聖書の枠と思って
いるが、その間に初代教会があり、中世カトリックがある。プロテスタ
ントはカトリックのプロテストとして生まれいるが、初代教会の遺産を
通り過ごしている。初代教会は長い迫害の後に、また異端との戦いのな
かで神学をまとめてきた。その神学とプロテスタント福音派の神学の違
いに自分たちが気づいてきている。多くのプロテスタントの神学者たち
が30年ほど前から初代教会の遺産に注目してきている。
 具体的な例は、プロテスタント福音派の神学の枠では雅歌を取り扱う
手がかりがない。実際にほとんど取り上げていない。初代教会では雅歌
を大切なものとしてきた。ニュッサのグレゴリオスの『雅歌講話』に見
ることができる。その必要をカトリックの人たちも分かってその人たち
の努力で邦訳されている。そんなことで、初代教会が受け継いだ遺産の
方が聖書により近いのではないかという問い直しがでている。福音派も
その問いかけに耳を傾けてきている。

 第二は、さらに具体的な神学のアプローチとして、ニケア信条と福音
派の信条に現されている、受肉の理解の違いである。さらにそれに関わ
る救済論、キリスト論、三位一体論の違いである。ニケア信条では、キ
リストの受肉は私たちのため、私たちの罪のためと明記されている。十
字架と復活はそれに続いている。ニケア信条の中心人物であるアタナシ
ウスの『神のことばの受肉』にもその意味がまとめられている。福音派
の信条では、受肉は処女降誕の証としてまとめられているだけである。
救いの理解は十字架から入る。いわゆる十字架の神学である。受肉は救
済論から落とされている。
 この違いは、救済の意味づけ、キリストの位置づけ、三位一体論の捉
え方と、神学全体の枠の違いをもたらす。初代教会では救いの目標はキ
リストとの一体におかれている。福音派では義認論が中心に回ってい
る。初代教会では、キリストとの一体感がなければ、キリストとおなじ
道を通されるという迫害に耐えることはできなかったという現実が基盤
になっている。義認論の後にはキリスト者がどのように生きるのかとい
う課題がでてくる。聖化と栄化というテーマで論じられている。そして
さらに、生きた三位一体論と思弁的な三位一体論の違いである。

 第三は、初代教会は信仰の影の面を真剣に取り上げている。闇の世
界、魂の暗夜のことである。福音派は福音の積極面を見ているので、人
間の陰の面を取り上げることは不信仰という感じがある。福音の積極面
の強調で福音派の進展をみた。同時に取り残されてきたことが、福音派
がそれなりに安定してきたことで課題になってきている。個々の取り上
げはあるが、神学として魂の暗夜のことをどのように取りかかってよい
のか手がかりがない。初代教会の神学は不思議な影を持って投げかけて
くる。
 初代教会で受肉が前面に取り上げられていることで、同時に肉を持つ
人間の弱さ、肉がうちに持っている悪の世界を正面から取り扱うことが
できる。プロテスタントは二元論を否定はしているが、二元的な視点を
保持している。すなわち霊肉二元論な視点であって、肉の面を否定的な
ものとしてはじめから落としている。霊の面、信仰の世界だけのことと
して聖書を理解している。そのために肉が負っている闇の世界を神学と
して取り扱うことができない。ニュッサのグレゴリオスは雅歌の麗しい
交わりのために、暗夜の試みを通らないと入ることができないと見てい
る。光の世界にはいるために、闇の世界をしっかりと見据えている。

 福音派からギリシャ正教会に改宗するとかいう問題ではない。福音派
がいただいているものを大切して、同時に見落としてきたものを素直に
認め、初代教会が持っているものを取り入れながら、自分たちが豊かに
なればよい。といってもそのための手がかりも限られている。ともかく
ニケア信条をもう一度確認することから始めたい。ニュッサのグレゴリ
オスの『雅歌講話』に取りかかるのもよい。初代教会の神学として
A. ラウス著『キリスト教神秘思想の源流』(教文館)はよい手引きで
ある。ギリシャ正教会の神学としてはアラジミール・ロースキイの『キ
リスト教東方の神秘思想』(徑草書房)がある。
 それにしてもアメリカの福音派も自分たちの変容を強いられているこ
とが分かる。それなりに敏感である。日本の場合には一度確立した福音
派をそのまま守る、保守的な、保身的な体質が染み込んでしまってい
る。世界を観るときである。歴史をしっかりととらえるときである。変
容を受け入れるときである。