ウィークリー瞑想

上沼昌雄(神学博士)のキリスト教神学エッセー

Saturday, August 27, 2005

病院

ウイークリー瞑想  2005年8月25日(木)

昨年の夏に高血圧の薬に対するリアクションから始まった妻の病気は、2週間半ほど前にセブンスデイ・アドベンティストの大学病院に入院というかたちになりました。肺高血圧症という診断をいただき、現在肺に溜まっている水分を取り除くことで圧力を下げる治療を受けています。その間薬と食べ物のリアクションからも解放され、徐々に回復してきています。検査、診断、治療のプロセスを通っています。多くの方の祈りに支えられてきています。

病院は妻の両親のところから1時間ほどで行けます。昼前に入って、夜8時の面会時間の修了まで病院にいます。いつも妻の病床の脇にいられるわけではありません。回診や、他の患者の緊急治療や、看護師の交代時間は病室から出て行かなくてはなりません。じっと待っていることがよくあります。同じように待たされている家族がいます。顔を見合わせるだけでお互いの立場を納得しています。時には言葉を交わすことがあります。

同じように奥様が入院されていた男性と待合室で話が始まりました。とりとめのない話です。時には新鮮な空気を吸いたくて病院の外にでて、そこに彼もいてただ黙って一緒にベンチに座っている時もありました。どうなるか分からない不安もあります。同時に今までの人生の歩を振り返らされます。

人生の集約を病院で経験します。彼の奥様は召されました。当然ですが次の日から顔を合わせることはなくなりました。

二晩ほど待合室から廊下までメキシコ系の家族親戚一同が集まっていたときがありました。家族の要のおじいさんが危篤状態であったようです。若い方が遠慮なしに涙を流されていました。どこでどのような生活をされているか分かりませんが、この親族の今までの歩みのすべてを見る思いがしました。

隣に小児科病棟があります。重い病気の子どもさんを見ることがあります。また産婦人科病棟から生まれたばかりの赤ん坊を抱いて帰っていく若い夫婦を見ます。

病院は生と死が隣り合わせです。その分人生のぎりぎりのところに対面させられます。ごまかしや、装飾が効きません。患者も家族も今までの歩みの集約を経験します。屋根瓦をはずして病人をイエスの前につり押しした人たちの思いが伝わってきます。イエスのところに使いを出した百人隊長の心が伝わってきます。

セブンスデイ・アドベンティストの人たちは医学に力を入れていますが、最終的な癒し主はイエスだとはっきりと認めています。医師たちも謙虚です。妻の話をよく聞いてくれました。妻も医師たちを信頼していきました。新しい展開が始まりました。

上沼昌雄記