霊性神学序論_その3
神学モノローグ 2005年6月20日(月)
霊である神が肉を取って私たちの間に来てくださり、住んでくださった受肉の事実が霊性神学の始まりである。霊と肉がキリストの受肉で結びついている。その事実に基づいて私たちの肉の現実を霊的な意味で直視することである。肉を持つものの現実を直視しながら霊である神に近づくことである。万物を超えて存在している神と、肉の現実に悩み苦しんでいる私たちとの接点であり境界線に立つのが霊性神学である。
今回、2回の霊性神学序論のセミナーとクラスで最初の取り上げなければならなかった視点である。霊である神に近づくためには、肉の現実を直視し、受け止め、乗り越えていく以外にない。無視したり、後回しにできない。肉の現実として、自分の生まれ育った家庭、養育歴、過去の現実のすべてが含まれる。
そのための作業として自分のイメージを探る作業をした。
さらに肉の現実として避けられないテーマが性である。男性集会で取り上げてきた。性を霊的な課題として真剣に取り上げることである。私たちの聖書理解があまりにも道徳的になりすぎているために性は否定的な意味でしか捉えられていない。霊的にみていくことである。SpiritualityとSexualityである。Sexualityに関しては、Spiritualityを認めている人のなかで真剣に取り上げられている。
ヘンリー・ナウエンがそうであり、スコット・ペックがそうであり、ハンス・ビュルキ師がそうである。
性は神の作品として与えられている。女性として男性として存在している。異性を慕い求める。その人と一つになることを心から求める。その思いを神が与えてくださった。そうでありながらそこに行き違いが生じ、誤解が生じ、苦しみ、傷つく。一つになることの難しさを経験する。乗り越えていって何とか一つとされる意味を感じ取る。そんな情景を不思議に旧約聖書の雅歌にみる。情感溢れるストレートな表現をみる。
初代教会の人は雅歌に、夫婦が一つとされることと、キリストと一つとされることの二面性を読みとってきた。夫婦が肉体的、心理的、霊的に一つとなることと、キリストとの霊的な一体との相関関係をみてきた。夫婦の一体感はキリストとの一体感を抜きにしては成り立たない。一つとなることで自分の人生が完成され、完結することを知る。キリストと一つとなることで初めて生かされている意味が満たされる。ひとりの異性と一つとなることで人生が完結する。
妻を花でたとえる作業は、そのイメージを自分がどうして必要としているのかを知る作業である。牧師のセミナーでSexualityを取り上げて、自分のイメージ、妻のイメージ、キリストのイメージの一連の作業を通して、自分のSexualityの向いている方向のズレに気づかれて、正直にその戸惑いを語ってくれた先生がいる。それが自分のなかのズレ、妻とのズレ、キリストとのズレを起こしているようだという。気づかれたことで次の展開が始まる。
雅歌の後半で花婿が花嫁の体の一つ一つを褒め讃えているところがある。自分の体の一部のように讃えている美しい描写である。肉の世界を霊の美しさが覆っている。隠すことのない透明な関わりである。
それは、アダムがもうひとりの自分の存在、女に気づいて、「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。」と呼んだことに呼応している。雅歌において、SexualityとSpiritualityとが調和している。
上沼昌雄記