ウィークリー瞑想

上沼昌雄(神学博士)のキリスト教神学エッセー

Wednesday, August 15, 2007

子であること、父であること

 妻の叔母の記念会があり、ロス郊外に行って来ました。その間長男義
樹の家に泊めていただきました。一緒に礼拝に行くことができました。
義樹たちの住まいはリック・ウォーレンの教会の近くです。そこにも
行って様子を見てき、またそれ以外にも二つほどの教会に行ってみてき
たが、いまの教会に決めたと言うことです。その経緯というか、決める
要因について義樹の奥さんが嬉しそうに説明をしてくれました。音楽と
メッセージが調和していることが決め手のようです。参加した礼拝も牧
師の休暇中で、外部のメッセンジャーで、いつものような聖書講解でな
いと話してくれました。またもう少し落ち着いたらばスモールグループ
の聖研に加わる考えであることを言っていました。

 2週間前はシカゴの長女瞳のところに行ってきました。礼拝には一緒
に行くことはできなかったのですが、どのような姿勢でいるのかは分か
ります。その雰囲気が漂っています。どのように子供を育てようとして
いるのか分かります。今回は義樹たちの霊的な方向を知ることができま
した。瞳たちとは雰囲気が違っていながら、心の向いているところは同
じです。

 この夏は子供たちの家庭を訪ねることができ、思いがけずそれぞれの
霊的な模様を楽しく観察しました。子供としての考えがあり、そこに結
婚を通して相手の霊的な姿勢が加味されてきます。親とは違ったものを
作り出していきます。夫婦で話し合いながら方向を出していることが分
かります。

 次女の泉は首都ワシントンのインターナショナル・チャーチに参加し
ていますが、別の教会のユースの活動にも参加しています。子供たちが
それぞれの信仰の形態を取っています。親のものとは違った、自分たち
に合うものをみつけています。私たちは18年前に移り住んだところの
教会に、途中で家が変わってかなり距離がありながら、その上にいろい
ろな問題がありながら、そのまま出席しています。子供たちは私たちの
姿勢を観察しています。

 子供たちが、信仰はひとつですが、親とは多少異なった形態や霊的雰
囲気を取っていくことで、自分たちのなかに新しい風が吹き込んできま
す。そのための窓が開いてきます。開けなければなりません。そして新
しい風で生き返ります。思いがけない視点をいただきます。それで自分
も新たに展開していきます。自分のなかだけに留まっていることはでき
ません。

 ユダヤ教の哲学者レヴィナスが「他者」を視点に取り入れることで、
子であること、父であることを哲学とテーマとして取り上げていること
が、現実的に分かってきました。西洋の思想は、神学も含めて、「他
者」ではなく、自己である「同」を中心に展開してきました。自己の理
解範囲に世界を築いていく作業に「他者」はただ組み込まれてきただけ
であると言います。「他者」は「同」の延長に過ぎません。子供は親の
延長になってしまいます。全体主義です。ナチスの全体主義は特殊なも
のではなく、西洋の思想の行き着いたところだと言います。

 「他者」は確かに、そんな「同」の枠には入らない驚きなのです。子
は「同」ではなくて「他者」なのです。親は子を通して、「同」を打ち
破って「他者」に対面するのです。自分の枠を乗り越えるのです。子は
驚きであり、自由なのです。絶対的な停止ではなく、流動的な未来なの
です。何をもたらすのか分からない驚異です。

 子であること、父であることが哲学のテーマとなるのです。すなわち
誰にとっても意味のあることとして提示されているのです。自分だけの
世界を築くことが人生でないことを哲学として語っているのです。自分
のための他者であり、世界であるという自己中心性を打ち破ることを意
味づけてくれています。他者のためであることで人生の意味が出てくる
ことを哲学としています。

 パスカルは「アブラハム、イサク、ヤコブの神」、哲学者の神ではな
いと言いますが、レヴィナスにとっては、「アブラハム、イサク、ヤコ
ブの神」は哲学者の神でもあります。少なくともそうあろうとしていま
す。子であること、父であることが誰にとっても意味のあることのなの
です。西洋の思想で聖書を読んでいたためか、なかなか結びつかなかっ
た系図が身近になってきました。子であること、父であることで神の歩
みのなかに組み込まれているのです。系図は生きています。

 シカゴで瞳の夫が、父親であることで何が一番の喜びであったかと尋
ねてきました。子供と一緒にいて見つめていることだと答えました。そ
してこの日曜の夕方、ベランダで義樹とふたりで夕涼みをしながらしば
しのときを持ちました。

Tuesday, August 07, 2007

「手のひらほどの小さな雲」

 行きと同じ道を同じように3日間の行程で、シカゴから北カリフォルニアに戻ってきました。2日目の昼の大半はワイオミング州を横切ることになりました。途中にララミーという町があります。中学生の終わり頃からようやく家に入ったテレビで『ララミー牧場』というドラマを食い入るように観ていました。フリーウエイを降りて町並みを見て回りました。長い間憧れていた土地に来たような感覚をいただきました。
 ワイオミング州に入ってララミーまでは平坦な農業地帯です。ララミーからゆっくりと山並みを登りながらユタ州に入っていきます。数年前にその平坦な農業地帯でJCFNの理事会を持ちました。デンバーにいる理事の奥様のご両親でポテト農場をされている方が家を開放してくださいました。その時に夕立がありました。夕立のあとにひとつの地平線から次の地平線まで180度にまたがっている虹が出てきました。
 その虹を思い出し、空に浮かぶ雲を眺めながら運転をしました。その奥様がメキシコ湾からの湿った空気がワイオミングまで届いてきて、一日のうちにさまざまな空模様を展開しているという説明を思い出しました。確かに雄大な大地ですが、それは同時にとてつもない大きな空を提供してくれます。しかもそこにさまざまな雲が浮かび、絶え間なく動いているのです。雄大な大地で、カリフォルニアのようにただ晴れ渡っているだけでしたらあきてしまいます。あきさせない神の計らいを感じます。ララミーの町で買った絵はがきにもどれも雲が写っています。
 やさしくほほえんでいるような雲、綿飴のように食べたくなるような雲、空高く遊泳を楽しんでいるような雲、ひとりぽつんと取り残されたような雲、延びきってすべてをゆだねているような雲、まとまってこちらを待ち受けているような雲、山の向こうから顔を出して様子を伺っているような雲、厚く積み重なって雨を降らせている雲、白い雲と黒い雲。
 そんな雲の様子が脳裏に刻まれたと言っていいのかも知れません。家に戻って興味がありましたのでグーグルで「雲」を検索してみました。 「雲ホームページ」、「雲百科」、「雲ブログ」等、雲に魅せられて人が写真を撮り、ネットに載せています。そして『雲、息子への手紙』というネイチャー・ドキュメンタリーを制作した女性映画監督がいることを知りました。2001年のカンヌ国際映画祭で上映されたと言うことです。あのカトリーヌ・ドヌーブがナレーターをしているというのです。
 そしてさらに友人の高橋秀典牧師が、第1列王記18章と19章の説教ノートを送ってくれました。預言者エリヤがバアルの神と戦ったカルメル山の劇的な記事です。ノートには「神の沈黙の声とは」という副題が付いています。興味のある箇所を興味のあるテーマで取り扱ってくれています。
 惹かれるようにこの箇所を注意深く読んでみました。バアルの神との戦いに勝利をしたあとに、数年の飢饉の終わりを告げる箇所があります。カルメル山の頂上で顔を膝の間にうめるように地にうずくまって、 従者に海の方を見るようにエリヤは告げます。「何もありません」と従者は答えます。「もう一度」と命じて、そんなやり取りが7度繰り返されます。そして最後に「手のひらほどの小さな雲が海から上ってきます」と返事をします。しばらくして、空は厚い雲に覆われて暗くなり、 風も出てきて、激しい大雨となりました。そのように、自ら予告した飢饉の終わりを告げます。
 中近東を旅行したことはありません。カルメル山は地中海を見下ろせるところにありますが、ただ想像しています。その頂でただ身をじっとかがめる姿勢でエリヤは「手のひらほどの小さな雲」の到来を予告しています。何かをしっかりと感じ取っていたのです。そしてしばらくして黒雲に覆われて大雨となりました。
 ワイオミングで厚く覆った雲が前方にあり、しばらくして打ち付けるような大雨の中を通過しました。一瞬先が見えない状態が続きましたが、しばらくしたらまた晴れ間が出てきました。しかしエリヤがもたらしたものは、数年来の飢饉の終わりを告げる雨です。地を回復させる雨です。洪水をもたらし地を破壊する雨ではありません。地をしっかりと潤す雨です。「手のひらほどの小さな雲」と恵みの雨です。
 イスラエルの民を導いた雲の柱、モーセが神に会うために導かれた雲の中、イエスの変貌山での弟子たちを覆った雲、イエスの昇天と再臨のときの雲、信仰の証人たちを表す雲。雲は、天と地の間に浮かんでいて、何かを語り告げています。目を向けさせてくれます。向こうに思いを馳せてくれます。

Thursday, August 02, 2007

「神様の地理学」

 今回シカゴの孫に会うためにと言うのが隠れた理由なのですが、わが
家を先週の火曜日の午前11時に出て、その日はネバダ州とユタ州を横
切って11時間700マイル(1120キロ)、次の日はワイオミング
州を横切りネブラスカ州をほぼ横切って12時間800マイル(128
0キロ)、そして木曜日はアイオワ州を横切ってイリノイ州に入って9
時間550マイル(880キロ)のドライブをして夕方6時に長女瞳の
家に無事に到着しました。滅茶苦茶なドライブだと友人に言われまし
た。昨日は古巣のレーキサイド教会で奉仕が許され、3日でドライブを
して来たことを同じように驚かれました。

 ワイオミング州を横切ってネブラスカ州に入ってすぐのレストエリア
に立ち寄りました。そこは旅行案内所も兼ねていて年輩のご婦人が親切
にも地図とガイドブックをくれました。その入り口のドアに驚いたこと
に「ここはまだガラガラヘビの生息しているところです。」というサイ
ンが掲げてありました。ですからまだ安心しないで注意をしてください
という意味だと思います。それにしても私たちのところから千マイル以
上もはなれたところまでガラガラヘビの生息していることになります。
途中でロッキー山脈を越えているのです。

 アメリカ大陸の大きさに驚かされるのと同時に、その荒地のようなと
ころを生活の場として開拓し、開墾してきた歴史を思い返します。子供
の頃によく観た西部劇を思い出します。馬車に乗りながら水のない荒地
を家族で旅をしているのです。いまはそこにフリーウエイが走り、とこ
ろどころに町があり、宿があります。そういう便利さを除いたらあとは
荒地をただひたすらドライブをしていることになります。自分の進んで
いく先が波を打って山の向こうにに見えるのです。

 そんなワイオミングの雄大な土地と晴れ渡った大空に浮かんでいる雲
を見ながら、また神様はどうしてこんな大きな荒地の自然を作られたの
だろうかと思いながら、イスラエルの何十万という民がエジプトを出て
約束の地を目指して40年も旅をしたことを思い描いてみようと思いま
した。同時に想像の限界を感じました。フリーウエイは永遠に続いてい
るような感じですが、それでもどこまで行ったらガソリン・スタンドが
あり宿があるというサインが立っています。それにあわせて計画を立て
ることができます。注意していればそれなりに安全な旅です。ですか
ら、どこに飲み水があり、食べ物があるのかも分からないで40年も荒
野を旅をすることは想像もできないことです。

 そんなこと思ってドライブをしているときに、大学で受けた地理学の
授業のことを思い出しました。学期の初めの数回授業があってそれから
学期の最後まで研究のために世界中を飛び回っている教授です。最後の
週に戻ってきて授業がありました。朝から始まって世界中で取ってきた
スライドを見せてくれました。それが何時間も続くのです。そしてその
まま期末試験となりました。それは見たスライドについてのコメントを
口頭で言うことでした。不思議に魅力的な授業でした。

 私は和辻哲郎の『風土』で言われていることをもとにして、「砂漠地
帯」の聖書の世界と「モンスーン地帯」の日本の違いを自分なりに理解
して話したのを覚えています。そして最後にそのような風土が人生観や
世界観にどのように影響しているのか逆に教授に聞いてみました。そう
したら、頭を抱えるようなかっこうで「それこそ自分の一番知りたいこ
とだ。」と言われました。それ以上の返事はありませんでした。大学で
受けたもっとも印象的な授業でした。

 そして取りも直さず、リジェント大学で霊性神学を指導してきた
ジェームズ・フーストン師はオックスフォド大学では地理学の教授でし
た。学生とのカンセリングを通して誰の心のうちにも「たましいの地理
学」があると気づいて、リジェント大学の設立にあたって「たましいの
地理学者」として霊性神学を始めたのです。

 和辻哲郎のいうもうひとつの「牧草地帯」、すなわちヨーロッパで神
学が形成され展開してきました。きめの細かい体系づけられた概念の世
界です。予測のつく世界です。規則と法の世界です。近世、近代を導い
た自律した理性の世界です。荒地より都会の生活です。荒地を旅をして
いるよりも都市のなかでの定着した教会生活です。旅を終えてしまった
民のそれなりに安定した生活です。逆に旅を渇望している都市中心の世
界です。

 そんな都会人として、教会人としての経験やものの見方、世界観から
いま聖書を読んでいるような気がします。神学的に裏付けされた世界観
に合うように聖書を読んでいるところがあります。だからといっていま
自分の置かれている地理を否定することもできません。その必要もあり
ません。それぞれの地理も神様の作品です。四季のはっきりとした日本
の自然も、きめ細かいヨーロッパの自然も、雄大なワイオミング州の地
形も、イスラエルの民の通った砂漠も神のものです。ただそこでの世界
観を絶対視する必要もありません。そのようになりがちです。むしろ多
様な神様の地理学を楽しんだらよいのでしょう。