ウィークリー瞑想

上沼昌雄(神学博士)のキリスト教神学エッセー

Wednesday, May 16, 2007

「JCFNの理事会は・・・」

 北米での留学生伝道を中心に活動しているJCFN(Japanese Christian
Fellowship Network)は昨年15周年を迎え、団体としての組織のあり
方を確認しつつ新しい展開を始めています。過去15年で多くの方々と
接することができました。日本に戻ってそれぞれのところで活躍をして
います。海外経験を生かしてさらに海外で働いている人もいます。結
婚、出産を迎えた人もいます。牧師になられた方も出てきています。

 そんな帰国者のフォローアップの必要が日本の教会のなかで認識され
てきています。北米だけでなく、ヨーロッパ、アジアからの帰国者との
連絡も出てきています。日本人が海外で信仰を持つことと、帰国してか
らの教会との関わりが日本の伝道のテーマになってきています。200
8年の秋に全世界からの帰国者の大会を計画しています。

 そんな状況のなかでの理事会を、サクラメントから2時間半ほどシエ
ラ山脈に入ったエンジェルズ・キャンプという小さな街の郊外になるゴ
ルフ場付きのリゾート地で、先週末持つことができました。サクラメン
トでみくにレストランを経営している理事の荒井牧師の厚意によってい
ます。エンジェルズ・キャンプはかつて金鉱の町で栄えたところです
が、いまは観光地とリゾート地となっています。

 アトランタからビジネスマンのレイノルズ氏が、デンバーから
OMFのダーストン宣教師が、サンフランシスコの飛行場からそれぞれレ
ンタカーをして来ました。ハワイからマキキ教会の黒田牧師が、ロン
グ・ビーチからの黒田総主事とサクラメントで合流して来ました。トロ
ントのヤマハ楽器の社長に就任された三上洋輔理事がサクラメントの到
着して、日本からの後藤主事と合流してレンタカーで来ました。

 私はロス郊外を早朝まだ暗いうちに出発しました。フレスノからヨセ
ミテに向かう41号線をとりました。途中のオークファーストという町
から49号線に入り、目に染みるような新緑のシエラ山脈のなかを、時
には川沿いを走ったり、牛の放牧を観ながら、小さな街をいくつか通過
しました。結構な山越えも2回ほどありました。山並みの向こうに進む
道が隠れたり見えたりしながらドライブをしました。空は晴れ上がり、
空気は澄み切って、気持ちのよい風に吹かれながらの8時間のドライブ
の旅となりました。

 3つのコテージを借り切ってくださり、一つを荒井先生ご夫妻と教会
からの方々が入りました。先生の奥様と教会の方々がレストランから食
材を持ってきてくださって、おいしい食事を作ってくれました。出張み
くにレストランとなりました。黒田、三上理事と後藤主事と私がもうひ
とつのコテージに入りました。そこが会議室となりました。レイノルズ
理事とダーストン理事が3つ目のコテージに入り、黒田総主事はそのコ
テージのなかの2階の部屋に入りました。日本の米内、森作理事は残念
ですが参加できませんでした。

 太平洋を挟んだこの働きの理事に不思議に導かれたことを分かち合い
ながら、現在与えられている7名の主事の活動報告から始まって、主事
たちが具体的に進めている帰国者のスモールグループのこと、All
Nations Returnee Conferenceのこと、新給与システムのこと、決算と
予算と、ファンドレイズのことと、必要なことを話し合い確認すること
ができました。主事たちが安心して奉仕ができるために高橋アソシエイ
トと三上理事がまとめてくれた新給与システムの導入は新しい進展で
す。一つづつの議題を主の導きを確認しながら話し合うことができまし
た。

 会議の中日の午後に、荒井先生が近くの鍾乳洞とセコイアのビックツ
リー州立公園に案内してくれました。鍾乳洞の狭いところを急な階段が
ついていて、案内をたよりに数十メートルの下まで降りていきました。
幻想的な世界です。案内の人が電気を消して、真っ暗闇を経験しまし
た。周りの人の息づかいが分かるので安心していますが、ひとりでそん
なところにいたらどんなことになるのか、想像することもできません。
しかしそんな真っ暗な闇が地下のどこかにあるのです。

 セコイアの木を見上げながら皆でゆっくり散歩をしました。樹齢10
00年を越えているようなまさに大木があちこちにあります。皆で一列
に並んでも届かないほどの根っこもあります。倒れた木のなかをトンネ
ルのように通ることもできます。立ったままの木の根元を人が通れるよ
うにもなっています。1000年を越える木が話しかけてきたらどんな
ことになるのか想像してみました。思い思いのことを分かち合いながら
ゆったりとした気持ちで時の流れに身をゆだねました。

 三上理事が、これは理事会というよりも修養会であると何度も言われ
ました。会議はディボーションを入れて朝7時から始めました。9時に
朝飯、1時に昼食、6時に夕食が用意されたいました。決めるべきこと
を充分話し合って決めながら、互いに恵みを感じながら時を過ごしまし
た。理事であることでさらなる恵みをいただいています。三上理事がご
自分をPractical Servantと表現されました。荒井理事はご自分は
Unpractical Servantとである言われました。といって理事会の場所と
食事を提供してくれたのです。来年もどうぞということでした。

 JCFNと私のミニストリーは時を同じくして進んでいます。昨年
ともに15周年を迎えました。18年前に家族でカリフォルニアに移住
したときには想像もできなかったことです。荒井先生との交わり、ダー
ストン理事とレイノルズ理事との出会い、神学校の先輩の黒田理事との
分かち合い、KGKの主事の時に学生であった三上理事との再会、
どれもが深い、そして不思議な導きのなかにあることです。また、
JCFNの活動で出会った若い方々もどこかでまた、神が結びの糸を持って
結びつけてくれることです。そんな恵みを覚えながら、来た同じ道を、
同じような晴れ上がって目映いほどの新緑のなかをゆっくりドライブし
ながら帰途につきました。

『神学のアマチュアリズム』

神学モノローグ
「神学のアマチュアリズム」2007年5月8日(火)

 4月初めのジェームズ・フーストン師による公開講座「心の井戸を掘
るーポストモダンの行く末を見据えた牧会を目指して」に参加すること
ができた。同時にフーストン師の新刊『喜びの旅路』(Joyful
Exiles)が出版された。フーストン師ご自身の世界であり、聖書の世界
であり、文学の世界であり、神学の世界である。自分の狭い世界を脱出
して神の国を求めて彷徨う異邦人として、真の自分に出会い、神に出会
い、友に出会う旅人の物語である。すでに80歳になられてもその旅を
続けている、そんな思いが伝わる公開講座であった。

 そしてその週のイースターの前に、友人の小泉一太郎さんを前橋に尋
ねることができた。大村晴雄先生の下で30年前に一緒に勉強をさせて
いただいた先輩である。小泉さんは教育哲学をされ、後に群馬大学教育
学部の教授になられた。私の故郷の前橋に住まわれている。オックス
フォド大学史を専門とされている。近著『19世紀オックスフォド大学
の教育と学問』(近代文芸社)をすでに滞在先に送ってくださった。

 奥様の手料理をいただきながらオックスフォド大学の精神の話になっ
た。小泉さんは毎年のようにオックスフォド大学を訪ねている。私は
ジョン・ヘンリー・ニューマンしか知らないのであるが、小泉さんは
オックスフォド運動に関わった人たちを自分のことのように話をされ
る。その人たちの息吹をいただいている。

 フーストン師がオックスフォド大学で地理学の教授として長く教えて
いながら、カナダのリジェント・カレッジに渡って、「たましいの地理
学者」として霊性神学を教えてこられたことを小泉さんに話をした。そ
うしたら、それこそオックスフォド大学の精神であると言われた。学生
はすでに古典、ギリシャ語、ラテン語をマスターしていて、さらに聖
書、ヘブル語に通じていて、その上で自分の専門を究めていく。それで
いて人間の理解を深めているので、大学の外の人たちにも通じるものを
しっかりと身に着けているという。専門を越えて交流の輪も持って意見
を交換しているという。

 その代表的な例がC.S.ルイスだと言われて納得できた。彼は中
世英文学者としての専門を持っていながら、『ナルニア国物語』という
子供の心にも入っていけるファンタジーが書けたのである。言われてみ
たらトールキンの『指輪物語』もそうである。インクリングズという文
芸の会でお互いに刺激し合いながら書いたと言われている。さらに考え
てみたらジョン・ウエスレーもオックスフォド大学の出身である。現代
ではアリスター・マクグラス師が歴史神学教授として活躍している。分
子生物学の博士号を持っていて、神学の教授として活躍している。『信
仰の旅路―たましいの故郷への道』(いのちのことば社)という信仰書
も出している。

 小泉さんは、オックスフォド大学の精神はアマチュアリズムであると
言われた。逆説的な響きがして驚いた。しかし小泉さんは、それぞれの
専門を究めていながら、だれにでも通じるものを持っているのがアマ
チュアリズムだと言われた。小泉さんの本を読んでさらに納得した。そ
れは古典に通じ聖書に通じることで、人間への深い理解と「気高く柔軟
な精神の開発」を目指しているからだと分かる。何も知らないというア
マチュアリズムではなく、ある専門を窮め尽くしていながら、だれにで
も通じる心をも養っているのである。小泉さんの本も専門書なのです
が、その精神を継いでいる。19世紀のオックスフォド大学の息吹を感
じながら読むことができる。

 この意味でのアマチュアリズムは聖書理解と神学にも通じるのであろ
うと考えさせられた。ギリシャ語とヘブル語で聖書を学んで、神学を学
んだことで、専門家に収まっているのではなく、逆に人に対する深い理
解をいただくことである。むしろ人間に対する深い理解の上に聖書を解
き明かしていくことである。アウグスティヌスの『告白』はまさにそう
である。カルヴァンが『キリスト教綱要』の初めで言ってる、神を知る
知識と自分を知る知識の一致である。

 福音派の神学校もそれなりの歴史を持ってきて、科目としての聖書と
神学の教授ができるようになった。その反面、聖書の専門家とそうでな
い人という区別ができてきた。自分たちの聖書理解とその方法を絶対化
してきた。現実には人間に対する理解を欠いてしまった。フーストン師
が指導してきたリジェント・カレッジはだれにでも開かれた神学校であ
る。教授も学生もともに人間に対する理解を深めていく神学の姿勢であ
る。それは取りも直さず自分を知ることの神学である。