ウィークリー瞑想

上沼昌雄(神学博士)のキリスト教神学エッセー

Monday, March 19, 2007

「うめきの二重奏・三重奏」

 2月26日付のこの覧で「うめき」について書きました。ひとりのご
婦人から次のようなメールをいただきました。「『うめき』では言葉に
ならない理解をしています。うめきというか・・愚痴に近いことは、人
間の性でしょうか。言葉に表してはいけないと思う時、うめきの上にう
めきが重なり、二重奏・三重奏をかなで、重い々時が流れます。」この
方のうめきの二重奏・三重奏が聞こえてくるようです。

 何をうめいておられるのかは知るよしもありません。ただ、「うめき
の上にうめきが重なり、二重奏・三重奏をかなで」と書いてくださった
ことで、この方が心のなかのうめきをしっかりと聞き届けていることが
分かります。うめきが幾重にも積み重なっていく、そんなご自分の心の
様子を見ているのです。そんな心の風景が見えているので、うめきの
「二重奏・三重奏」という表現ができたのです。それで、心は重いので
すが、同時にそれで振り回されないで、うめきの向こうにも目を向けて
いるのです。

 以前の「56歳の青春」という記事に対しても、「私は77歳の青春
を謳歌している。でも内容は薄っぺらで、タイトルだけは負けないぞと
失笑です。」と、ご自分をしっかりと受け止めている表現をされていま
す。どうにもならない自分を少し距離を持ってみているのです。何とも
ユーモアのある言い方が出てくるのは、まさに内なる人が日々新たにさ
れているからだと分かります。

 「うめきの二重奏・三重奏」という言い方が私のなかでなんども響い
てきました。歳をとったらうめきがなくなるのでもなく、信仰の深さと
ともにうめきがなくなるのではないのです。逆に年とともに、信仰の歩
みとともに、うめきが深くなるのです。ただ年とともに、信仰の歩みと
ともに、うめきをしっかり聞き届けることができるのです。まさに「う
めきの上にうめきが重なり、二重奏・三重奏をかなで」ているのです。
うめきがなくなるのではなく、うめきが深くなるのです。ただ感謝なの
は、そのうめきを聞き届けることができるのです。その二重奏・三重奏
を聴きことができるのです。重い重いときが流れるのですが、その響き
が何かをもたらすと期待できるのです。

 そんなこと思いながら、ロマ書8章のパウロのうめきの物語を振り
返ってみました。パウロもうめきの二重奏・三重奏を聴いていました。
パウロの心の深くから湧き出てうめきにうめきが重なって奏でているの
です。しかしそんなパウロが自分の心のうめきを聞きながら、自分の心
の外で同じようにうめいているうめきに耳を傾けているのです。前回
「パウロは、『被造物のうめき』と『御霊のうめき』にサンドイッチの
ように挟まれて自分の『心のうめき』を聞いています(ロマ書8:22
-26)」と、書きました。自分のうめきの心が、ただ不思議なことな
のですが外に向いているのです。心の内側のことが外側に通じているの
です。どうしてそのようなことが起こるのか、ただ不思議なことです。

 うめきは心の深いところから湧き出て、うめきにうめきが重なって、
二重奏・三重奏となるのです。いまその二重奏・三重奏を静かに聴いて
いると、二重奏・三重奏の向こうに「被造物のうめき」と「御霊のうめ
き」が四重奏・五重奏のように聞こえてくるようです。四重奏・五重奏
のようなうめきが、二重奏・三重奏のうめきを覆っているようです。覆
いながら共鳴しているようです。自分の心のうめきを聞きながら、この
共鳴を聞くことになるのです。心の反転です。自分の心に向いていた耳
が、心の外に向いていくのです。心の深いうめきの響きと、遠いところ
から響いてくる御霊のうめきが共鳴するのです。

 うめきは、激しければ激しいほど心を打ち破ります。心の窓を開けま
す。うめきを聞くのは、その開かれた窓を通して響いてくるからです。
自分のうめきでありながら、心の深いところに留められていたものが、
窓が開けられたことで自分で聞くことができるのです。そして、開けら
れた窓から届いてくる自分の心のうめきを聞きながら、その窓から今度
はさらに自分の外で響いているうめきに耳が向いていくのです。「被造
物のうめき」を聞き、「御霊のうめき」を聞くのです。そんなロマ書8
章のパウロの心の不思議なメカニズムを思い描いています。自分のなか
のことでもあってほしいと願いながら、思い描いています。

Saturday, March 10, 2007

「チャック・スミス」

 しばらくぶりにチャック・スミスの説教を聞きたくなって2週に渡っ
て礼拝に集った。前に伺ったのは10年近く前になる。最近は、さらに
30分ほど先にあるサドルバック教会のリック・ウワォーレンのことが
マスコミに注目されている。チャック・スミスのことは忘れられた感が
ある。そんなこともあって礼拝に伺った。

 会堂はこれがカルバリー・チャペルの働きを起こした有名な教会とは
とても想像がつかない、ごくありふれた、と言うよりみすぼらしい感じ
の会堂である。駐車場は四隅から野球が充分にできるほどの広さであ
る。11時15分から始まる第3礼拝であるが、2千人入る会堂はいっ
ぱいである。外にもベンチが置かれていてそこできも聞いている。また
体育館とホールでスクリーンを観ながら礼拝を守っている人もある。前
に伺ったときより年齢層が上がっている。1960年代にジーザス・
ムーブメントでピッピーたちをキリストに導いたチャック・スミスも8
0歳になっている。

 この数年はリック・ウワォーレンのことばかり耳に入ってきて、
チャック・スミスのことは何も聞くことはなかった。地元の新聞でも
リック・ウワォーレンのことをよく報道する。日本でも彼のことについ
て質問を受ける。しばらくぶりにチャック・スミスの教会に参加して、
むしろしっかりと確実に「祈りとみことばの奉仕」に就かれ、成長して
いることが分かった。

 カルバリー・チャペルの働きは全米に広がり、全世界に広がってい
る。チャック・スミスの教会より大きくなっているものもある。ラジオ
メッセージをチャック・スミスだけでなく、カルバリー・チャペルに関
わる人が何人かそれぞれの地域で行っている。カルバリー・チャペル・
カレッジも持っていて、聖書教育をしている。チャック・スミスは専用
のジェット機で飛び回っている。

 と言ってもそんな働きの数字や業績を何も宣伝しない。全米の教会の
数も、全世界のカルバリー・チャペルの数も、ウェブサイトに載ってい
るので、数えれば分かるのであるが、数えるのがいやになるほどであ
る。そんな数字はともかく聞こえてこない。カレッジのチャンパスは、
JCFNの修養会で使ったことがあるので知ることになった。専用の
ジェット機のことは、そのパイロットとあることで関わることになって
知ることになった。ともかくそんな数字や業績はどうでもよいという感
じである。カルバリー・チャペル全体の霊的哲学である。

 チャック・スミスはただ、創世記から黙示録までを繰り返し語ってい
る。いま何度目なのかは分からない。今回2回にわたって聞いたのはヨ
ハネで福音書の19章から21章までである。受難週とイースターはま
だ来月のことであるが、順序に従ってキリストの十字架と復活を聖書に
従って解き明かしていく。それだけである。専用ジェット機のことも、
いくつの教会が全米に、全世界に広がっていることも何も出てこない。
関係ないことである。

 聖書を楽しそうに語る。こんなに楽しそうに語る人に会ったことはな
い。無理に作っているのでない。そんなのは会衆には通じない。見破っ
てしまう。ともかく聖書に書いてあることをそのまま嬉しそうに、楽し
そうに語る。あたかもそこに居合わせているかのように語る。そこから
何かの教訓を引き出して、教えようとしているのではない。チャック・
スミス自身が聖書の物語の中に入って、そこで見たこと、聞きたことを
語っている。彼自身がともかく楽しんでいることが分かる。そんな心が
伝わってくる。それで会衆が引き込まれるように聖書の物語に入ってい
く。会衆と説教者がともに聖書の世界に入っているのが分かる。

 チャック・スミスとカルバリーチャペルなりの聖書理解があることは
分かっている。しかし、そこから来る窮屈さは感じない。むしろ聖書の
広さと深さを体験する。静かに礼拝に出席し、聖書研究に出席して、
チャック・スミスと一緒に聖書を楽しむことができる。私だったらここ
を強調するだろうと思うところをさらっと流し、私が気づかなかったと
ころに上手に入っていく。新たな気づきを与えてくれる。会衆も同じよ
うに楽しんでいる。自由と限りのない広がりが生きている。

 聞きながら、彼がある本で書いていることをを思い出した。彼は、西
欧の伝統的な霊魂と肉の二分説の限界を説いている。そして、肉と魂と
霊を分かる三分説の意味を説いている。二分説での霊魂の理解は、理性
と意志とを霊魂の機能と見ることで、霊の世界の意味を過少評価してい
るという。三分説で霊と魂とを分けることで、霊の意味を再評価してい
る。すなわち、説教は聞いている人の霊に語りかけることであると、
チャック・スミスはいう。

 まさに、彼の説教を聞いているとなるほどと納得する。その意味合い
を説明するのは難しい。ただ分かる。分かるのでその意味が限りなし
に、全米から全世界に広がっているのだと納得する。彼が80歳になっ
ても心の新鮮さを失わないのも分かる。彼自身が聖書を紐解きながら心
の霊で聞いているからである。自説を頑固に繰り返しているのではな
い。そういう説教を聞くことになり、そのことで苦しんでいる会衆のこ
とを耳にする。チャック・スミスは聖書の無限の豊かさを楽しんでい
る。そんな霊の響きがしっかりと伝わってくる。

「うめき」

 心を静めて自分の心に耳を澄ませていくと、心の底から何かが響いて
いるのが分かります。心の底が深み闇の奥に通じていて、地の底から風
が吹き上げてきて絶えず何かを唸らせています。地の底に誘い込むよう
な響きです。しっかりと聞き届けられるものではなく、ただ心のなかに
穴が開いていてそこから風が通り抜けていくような音です。聞きたくも
のない音です。それでも心の耳に届いてきます。寝ているときも、仕事
をしているときも、人と話をしているときも、聖書を読んでいるとき
も、祈りをしているときも心の耳から離れません。

 パウロはそんな自分の心の底の響きを、ロマ書8章で「うめき」と
言っているようです。「被造物のうめき」と「御霊のうめき」にサンド
イッチのように挟まれて自分の「心のうめき」を聞いています(ロマ書
8:22-26)。あたかも自分の心のうめきに耳を澄ませているとき
に、自分の外でも同じようなうめきがあることに気づいて聞き届けてい
るようです。心の底の深い闇の奥で響いているうめきが、地の隅々か
ら、またさらに地を越えたところから聞こえてくるようです。地表から
染み込んで地の底の真っ暗闇のなかから鳴り響いているようです。ま
た、地をはるかに越えた天でも響いているようです。

 パウロがなにをうめいていたのかを、自分の心のうめきに聞きなが
ら、想像します。それにしても「何を」というのは明確には出てきませ
ん。むしろ訳もなくうめいている自分の心に対面します。パウロの心よ
り自分の心のことが気になります。ただパウロの心のうめきに気づい
て、自分の心のうめきを聞き取る手がかりをいただいているのです。そ
して、うめきが連動してその先の先と進んでいきます。あたかもうめき
に物語があるように先に先にと進んでいきます。失敗や、別離や、空白
や、恐れや、怒りや、不信や、後悔の物語です。うめきが積み重なって
暗い闇夜の唄となってきます。

 男性として自分の心のうめきに耳を澄ませていると、他の男性の心の
うめきが伝わってきます。人生で失ったもの、取り返しのつかないこ
と、家族を傷つけてきたこと、満たされない心、劣等感で苦しんでいる
こと、優越感の虜になっていること、あたかもアダムがエデンの園を追
われて、決定的に何かを失って失ってしまったものを探し求めているよ
うです。うめいていながらこの地上では得られないようです。どこにも
行き所のない、たどり着けないうめきです。

 自分の心のうめきに耳を澄ませていると、少しだけパウロのうめきが
聞こえてくるようです。パウロが被造物のうめきを聞き届けていたのも
分かるような気がします。それでも分からないというか、驚かされるこ
とは、パウロが自分の心のうめきをじっと聞きながら、そのうめきを御
霊みずからがうめいていると気づくことです。自分の心のうめきと御霊
のうめきが結びついてくることです。どうしてそれが可能なのか、立ち
止まるのみです。決定的な隔たりがありながら、どうしてあたかもコイ
ンの両面のように結びついてくるのか、驚かされます。その結びつきを
知りたいと願います。

 パウロはそんな御霊のうめきに気づいて、その後「御霊の思い」、
「神のみこころ」、そして「神のご計画」(ロマ書8:27.28)に
ついて語っていきます。ですから自分の心のうめきを聞きながら御霊の
うめきに気づくことで、神の世界に導かれていることが分かります。あ
たかも自分の心のうめきが神の計画を知る手がかりであるようです。う
めきが神に近づく手立てのようです。

 自分の心のうめきを聞くことは、自己憐憫ではないのです。自己憐憫
はどこにも行き着けません。自分の心のうめきの聞きながら、他の人の
うめきに共鳴するのです。さらに御霊のうめきにまで届いていくので
す。それは自分の心のうめきをしっかりと、じっくりと聞き届けること
で開かれます。聞き続けることです。立ち止まって耳を澄ませることで
す。