「うめきの二重奏・三重奏」
2月26日付のこの覧で「うめき」について書きました。ひとりのご
婦人から次のようなメールをいただきました。「『うめき』では言葉に
ならない理解をしています。うめきというか・・愚痴に近いことは、人
間の性でしょうか。言葉に表してはいけないと思う時、うめきの上にう
めきが重なり、二重奏・三重奏をかなで、重い々時が流れます。」この
方のうめきの二重奏・三重奏が聞こえてくるようです。
何をうめいておられるのかは知るよしもありません。ただ、「うめき
の上にうめきが重なり、二重奏・三重奏をかなで」と書いてくださった
ことで、この方が心のなかのうめきをしっかりと聞き届けていることが
分かります。うめきが幾重にも積み重なっていく、そんなご自分の心の
様子を見ているのです。そんな心の風景が見えているので、うめきの
「二重奏・三重奏」という表現ができたのです。それで、心は重いので
すが、同時にそれで振り回されないで、うめきの向こうにも目を向けて
いるのです。
以前の「56歳の青春」という記事に対しても、「私は77歳の青春
を謳歌している。でも内容は薄っぺらで、タイトルだけは負けないぞと
失笑です。」と、ご自分をしっかりと受け止めている表現をされていま
す。どうにもならない自分を少し距離を持ってみているのです。何とも
ユーモアのある言い方が出てくるのは、まさに内なる人が日々新たにさ
れているからだと分かります。
「うめきの二重奏・三重奏」という言い方が私のなかでなんども響い
てきました。歳をとったらうめきがなくなるのでもなく、信仰の深さと
ともにうめきがなくなるのではないのです。逆に年とともに、信仰の歩
みとともに、うめきが深くなるのです。ただ年とともに、信仰の歩みと
ともに、うめきをしっかり聞き届けることができるのです。まさに「う
めきの上にうめきが重なり、二重奏・三重奏をかなで」ているのです。
うめきがなくなるのではなく、うめきが深くなるのです。ただ感謝なの
は、そのうめきを聞き届けることができるのです。その二重奏・三重奏
を聴きことができるのです。重い重いときが流れるのですが、その響き
が何かをもたらすと期待できるのです。
そんなこと思いながら、ロマ書8章のパウロのうめきの物語を振り
返ってみました。パウロもうめきの二重奏・三重奏を聴いていました。
パウロの心の深くから湧き出てうめきにうめきが重なって奏でているの
です。しかしそんなパウロが自分の心のうめきを聞きながら、自分の心
の外で同じようにうめいているうめきに耳を傾けているのです。前回
「パウロは、『被造物のうめき』と『御霊のうめき』にサンドイッチの
ように挟まれて自分の『心のうめき』を聞いています(ロマ書8:22
-26)」と、書きました。自分のうめきの心が、ただ不思議なことな
のですが外に向いているのです。心の内側のことが外側に通じているの
です。どうしてそのようなことが起こるのか、ただ不思議なことです。
うめきは心の深いところから湧き出て、うめきにうめきが重なって、
二重奏・三重奏となるのです。いまその二重奏・三重奏を静かに聴いて
いると、二重奏・三重奏の向こうに「被造物のうめき」と「御霊のうめ
き」が四重奏・五重奏のように聞こえてくるようです。四重奏・五重奏
のようなうめきが、二重奏・三重奏のうめきを覆っているようです。覆
いながら共鳴しているようです。自分の心のうめきを聞きながら、この
共鳴を聞くことになるのです。心の反転です。自分の心に向いていた耳
が、心の外に向いていくのです。心の深いうめきの響きと、遠いところ
から響いてくる御霊のうめきが共鳴するのです。
うめきは、激しければ激しいほど心を打ち破ります。心の窓を開けま
す。うめきを聞くのは、その開かれた窓を通して響いてくるからです。
自分のうめきでありながら、心の深いところに留められていたものが、
窓が開けられたことで自分で聞くことができるのです。そして、開けら
れた窓から届いてくる自分の心のうめきを聞きながら、その窓から今度
はさらに自分の外で響いているうめきに耳が向いていくのです。「被造
物のうめき」を聞き、「御霊のうめき」を聞くのです。そんなロマ書8
章のパウロの心の不思議なメカニズムを思い描いています。自分のなか
のことでもあってほしいと願いながら、思い描いています。