ウィークリー瞑想

上沼昌雄(神学博士)のキリスト教神学エッセー

Monday, July 09, 2007

ガラガラ蛇

 一週間前に家の後ろでガラガラヘビに遭遇しました。家の回りを清掃
しないと行けない状態でしたので、立てかけてあった草かきようの熊手
などの道具をとってみたら、足元にすでにとぐろを巻いていました。一
瞬身が縮まるような思いで飛び退きました。どのように処理したらよい
のかしばらくにらめっこをしながら考えました。ガラガラヘビのことは
よく話で聞いていました。大変な猛毒です。かまれた話も時々聞きま
す。いつかは自分も遭遇することになるだろうと思っていました。いま
までは猫がいたのでヘビの方が寄りつかなかったのかも知れません。

 直径10センチほどのとぐろを巻いていました。大きいものではあり
ませんでしたが、気持ちのよいものではありません。心臓は高鳴ってい
ました。小さな目玉は私の動きを探っているようでした。ここはしっか
りと処理をしないといけないと思いました。シャベルがそこにあったの
で、身を除けながらそれを手にすることができました。何度かそれでひ
と思いでと思いましたが、もし失敗をして逃げられると面倒なので、さ
らに方策を考えました。妻を呼ぶわけにもいけません。ここは自分の責
任と覚悟をしました。

 幸い取っ手の長い鉄製の鍬が立てかけてあったので、静かに取り寄せ
ました。それを思い切って振り下ろして、串差しの状態にしてから、頭
の部分をシャベルで切り取って処分することができました。何とか責任
を果たせたと思って、妻を呼んで現場を見せました。死んでも猛毒は
残っているので、妻の意見で、泥をかぶせて処理をしたガラガラヘビ
を、家の下の方に流れている渓流の脇の誰も立ち入らないところに持っ
ていきました。

 ガラガラヘビと格闘した話を、秋田の友人にメールしました。返事を
くれました。「ガラガラ蛇と対面して格闘したというのには、驚きまし
た。まだ、自分には蛇にも勝る敏捷性と体力を持ち合わせているとの妄
想(??)が闘争心を駆り立てて、戦わせたのかななどと想像していま
す。いや、上沼さんのことですから、そんな単純なことではなく、家族
や知人とが遭遇したときに危害を加えては困ると思って、わが身の危険
を顧みず戦って勝利したのかもしれません。しかし、還暦を過ぎた身で
すので、今後は、ご自愛下さい。私は、まだ、還暦には達してません
が、ガラガラ蛇と対面したら、蛇が自分から逃げていくようにだけした
かもしれません。そして、そんな話を家でして、家内には、非難の言葉
を頂くことになるような気がします。ルーズさんは、どんな反応を示し
たのでしょうか。少し、興味があります。、、、これから手術に入りま
す。舌癌再発(他院での術後)で、根治的頚部郭清、舌亜全摘・下顎骨
切除、遊離腹直筋皮弁再建と12時間ほどの癌との格闘です。」

 妻はこのメールをうれしそうに読んでいました。You are my
hero! と言ってくれたと返事を出しましたら、それは「想定内でした」
と返事が返ってきました。これだけですと手柄話のようになってしまう
ので文章に書く予定はなかったのですが、次女の泉の反応から思いがけ
ない視点をいただくことになりました。泉は話を聞いて、"Dad, you
are tough! Dad, that was really rugged of you!" と表現しました。
いつも面白い言い回しをするのですが、このruggedという言い方
が心に残っていました。響きとして今回の状況にぴったしとあっている
ように思いました。

 2年前にJohn Eldredgeという人の"Wild at Heart"とい
う本のことで、神学モノローグ「男性の霊的勇気」(2005年7月2
1日)という記事を書きました。この人の新しい本、"The Way of the Wild
Heart"というのが昨年出され、ベストセラーになりました。何時か読まな
ければと思って、最近読み出しました。
副題はA Map For The Masculine Journeyです。男性が男らしくなっていく
道筋を、自分の経験、コロラドでの男性のためのセミナーの経験を通して
語っています。
男性が男性らしくなっていくのは、まさにruggedな危険の多いこ
とだと書いています(p.15)。スムーズな平坦な道ではなく、岩肌
のようなごつごつとした、しかもオオカミやガラガラヘビの出てくる危
険の多い道であると言います。

 そしてこのruggedといのは、「丘に立てる荒削りの十字架(The
Old Rugged Cross)」(聖歌402番)と歌われている「荒削り」とも
訳されます。さらに「男らしい」「ごつごつした」とも訳されます。
John Eldredgeは、いまの教会は男性の男らしさを削いでしまう傾向に
あると言います。それで男性の男性らしさを聖書から学び、アウトドア
を通して経験させています。それはアブラハム、ダビデが通った道だと
言います。取りも直さずキリストの通った道だと言います。

 自分のなかですべてがスムーズにいくことを願う思いが強くありま
す。そうあることが信仰的であると思ってしまいます。しかし現実には
荒削りなごつごつした道を通されます。ガラガラヘビに遭遇します。心
臓が高鳴っても、退かないで、ここは身を危険にさらしても対応しない
といけないと思わされるときがあります。秋田の友人もしっかりと、男
らしく、ごつごつした人生を歩んでいます。

Tuesday, July 03, 2007

「聖書の近さ・キリストの近さ」

「聖書の近さ・キリストの近さ」2007年7月2日(月)

 長女瞳の夫が3年ほど前に送ってくれたジョン・バニエのヨハネ福音
書の講解(Drawn into the Mystery of Jesus through the Gospel of
John)を、妻と一緒に読んでいます。これは、ジョン・バニエが200
1年にテレビで行った25回のヨハネ福音書の説教集を下にしていま
す。ジョン・バニエはラルシュ・コミュニティーの働きを通して世界中
に知られています。1987年に日本でもリトリートを開催し、その時
のメッセージ集が、あめんどう社から『心貧しき者の幸い』として出て
います。

 どういうわけか4章のサマリヤの女のことから読み始めました。傷つ
き、苦しみ、孤独なこの女の人に引き寄せられていきます。家族から
も、社会からも逃れるようにして真昼に水を汲みに来たサマリヤの女が
すぐそばにいるように、ジョン・バニエの文章に引き込まれます。短い
文章で、分かりやすい英語で書かれていながら、時を越え、文化を越え
て自分もその場に居合わせるかのように惹きつけられます。

 傷つき、苦しみ、孤独なのはサマリヤの女だけでなく、いまも自分た
ちの回りで出会う人たちであることが分かります。イエスの時代がいま
にそのまま飛び込んできます。水を求めている人がすぐそばにいること
が分かります。そしてジョン・バニエの澄み切った泉のような文章は、
取りも直さず、傷つき、苦しみ、孤独なのは自分の心であることを納得
させてくれます。教えられて分かったというのではなくて、水を求めて
いるのはサマリヤの女ではなくて自分であると、内側から同意できます。

 『心貧しき者の幸い』にもサマリヤの女のことが繰り返し出ていま
す。その場に居合わせていたかのようです。その場で観察していたので
はなくて、自分があたかもサマリヤの女であったかのように思い描いて
います。サマリヤの女とジョン・バニエがダブってきます。「私たちひ
とりひとりの内に、このサマリヤの女がいます。」と言います。

 そして、「わたしに水を飲ませてください。」と言っているのは、い
まはイエスではなくて、そのようにして知的障害者に接していったジョ
ン・バニエ自身であることが分かります。傷つき、苦しみ、孤独な人の
心にいのちの泉が湧くことで、自分自身が癒されることを経験していま
す。イエスとジョン・バニエがダブってきます。そうすることがキリス
トに従うことであると説いているのではないのです。ただ実践している
のです。

 スカルの井戸辺のことがいまのこととして行われているのです。その
中から語っているのです。短い言葉で、噛みしめるように語っていま
す。何とも言えない聖書の近さ、キリストの近さを感じます。聖書の近
さはキリストの近さであり、キリストの近さは聖書の近さであることが
分かります。

 ヨハネ福音書でイエスに引き寄せられていると、ジョン・バニエは言
います。この福音書の学びを長い間してきて、多くの註解書も読んでき
たことを序文で語っています。註解書はしかし、多くの場合に、スカル
の井戸辺の状況を距離を置いて観察しているだけです。サマリヤの女の
罪深さを嘆いています。イエスのすばらしさを語っています。しかしど
うしても距離があります。外から観ている観察者になってしまいます。
聖書の権威を説き、聖書の無誤性を主張していても、この距離感を持っ
たままで説教をしています。

 ひとりの友人が野宿生活者、路上生活者のための働きをしています。
さまりたんプログラムと呼んでいます。いままでにない視点のメールを
よくいただきます。この方の持たれている聖書の近さ、キリストの近さ
が伝わってきます。そして、聖書を生きる、キリストのように生きるこ
との厳しさを知らされています。