ウィークリー瞑想

上沼昌雄(神学博士)のキリスト教神学エッセー

Tuesday, August 07, 2007

「手のひらほどの小さな雲」

 行きと同じ道を同じように3日間の行程で、シカゴから北カリフォルニアに戻ってきました。2日目の昼の大半はワイオミング州を横切ることになりました。途中にララミーという町があります。中学生の終わり頃からようやく家に入ったテレビで『ララミー牧場』というドラマを食い入るように観ていました。フリーウエイを降りて町並みを見て回りました。長い間憧れていた土地に来たような感覚をいただきました。
 ワイオミング州に入ってララミーまでは平坦な農業地帯です。ララミーからゆっくりと山並みを登りながらユタ州に入っていきます。数年前にその平坦な農業地帯でJCFNの理事会を持ちました。デンバーにいる理事の奥様のご両親でポテト農場をされている方が家を開放してくださいました。その時に夕立がありました。夕立のあとにひとつの地平線から次の地平線まで180度にまたがっている虹が出てきました。
 その虹を思い出し、空に浮かぶ雲を眺めながら運転をしました。その奥様がメキシコ湾からの湿った空気がワイオミングまで届いてきて、一日のうちにさまざまな空模様を展開しているという説明を思い出しました。確かに雄大な大地ですが、それは同時にとてつもない大きな空を提供してくれます。しかもそこにさまざまな雲が浮かび、絶え間なく動いているのです。雄大な大地で、カリフォルニアのようにただ晴れ渡っているだけでしたらあきてしまいます。あきさせない神の計らいを感じます。ララミーの町で買った絵はがきにもどれも雲が写っています。
 やさしくほほえんでいるような雲、綿飴のように食べたくなるような雲、空高く遊泳を楽しんでいるような雲、ひとりぽつんと取り残されたような雲、延びきってすべてをゆだねているような雲、まとまってこちらを待ち受けているような雲、山の向こうから顔を出して様子を伺っているような雲、厚く積み重なって雨を降らせている雲、白い雲と黒い雲。
 そんな雲の様子が脳裏に刻まれたと言っていいのかも知れません。家に戻って興味がありましたのでグーグルで「雲」を検索してみました。 「雲ホームページ」、「雲百科」、「雲ブログ」等、雲に魅せられて人が写真を撮り、ネットに載せています。そして『雲、息子への手紙』というネイチャー・ドキュメンタリーを制作した女性映画監督がいることを知りました。2001年のカンヌ国際映画祭で上映されたと言うことです。あのカトリーヌ・ドヌーブがナレーターをしているというのです。
 そしてさらに友人の高橋秀典牧師が、第1列王記18章と19章の説教ノートを送ってくれました。預言者エリヤがバアルの神と戦ったカルメル山の劇的な記事です。ノートには「神の沈黙の声とは」という副題が付いています。興味のある箇所を興味のあるテーマで取り扱ってくれています。
 惹かれるようにこの箇所を注意深く読んでみました。バアルの神との戦いに勝利をしたあとに、数年の飢饉の終わりを告げる箇所があります。カルメル山の頂上で顔を膝の間にうめるように地にうずくまって、 従者に海の方を見るようにエリヤは告げます。「何もありません」と従者は答えます。「もう一度」と命じて、そんなやり取りが7度繰り返されます。そして最後に「手のひらほどの小さな雲が海から上ってきます」と返事をします。しばらくして、空は厚い雲に覆われて暗くなり、 風も出てきて、激しい大雨となりました。そのように、自ら予告した飢饉の終わりを告げます。
 中近東を旅行したことはありません。カルメル山は地中海を見下ろせるところにありますが、ただ想像しています。その頂でただ身をじっとかがめる姿勢でエリヤは「手のひらほどの小さな雲」の到来を予告しています。何かをしっかりと感じ取っていたのです。そしてしばらくして黒雲に覆われて大雨となりました。
 ワイオミングで厚く覆った雲が前方にあり、しばらくして打ち付けるような大雨の中を通過しました。一瞬先が見えない状態が続きましたが、しばらくしたらまた晴れ間が出てきました。しかしエリヤがもたらしたものは、数年来の飢饉の終わりを告げる雨です。地を回復させる雨です。洪水をもたらし地を破壊する雨ではありません。地をしっかりと潤す雨です。「手のひらほどの小さな雲」と恵みの雨です。
 イスラエルの民を導いた雲の柱、モーセが神に会うために導かれた雲の中、イエスの変貌山での弟子たちを覆った雲、イエスの昇天と再臨のときの雲、信仰の証人たちを表す雲。雲は、天と地の間に浮かんでいて、何かを語り告げています。目を向けさせてくれます。向こうに思いを馳せてくれます。

0 Comments:

Post a Comment

<< Home