ウィークリー瞑想

上沼昌雄(神学博士)のキリスト教神学エッセー

Tuesday, July 03, 2007

「聖書の近さ・キリストの近さ」

「聖書の近さ・キリストの近さ」2007年7月2日(月)

 長女瞳の夫が3年ほど前に送ってくれたジョン・バニエのヨハネ福音
書の講解(Drawn into the Mystery of Jesus through the Gospel of
John)を、妻と一緒に読んでいます。これは、ジョン・バニエが200
1年にテレビで行った25回のヨハネ福音書の説教集を下にしていま
す。ジョン・バニエはラルシュ・コミュニティーの働きを通して世界中
に知られています。1987年に日本でもリトリートを開催し、その時
のメッセージ集が、あめんどう社から『心貧しき者の幸い』として出て
います。

 どういうわけか4章のサマリヤの女のことから読み始めました。傷つ
き、苦しみ、孤独なこの女の人に引き寄せられていきます。家族から
も、社会からも逃れるようにして真昼に水を汲みに来たサマリヤの女が
すぐそばにいるように、ジョン・バニエの文章に引き込まれます。短い
文章で、分かりやすい英語で書かれていながら、時を越え、文化を越え
て自分もその場に居合わせるかのように惹きつけられます。

 傷つき、苦しみ、孤独なのはサマリヤの女だけでなく、いまも自分た
ちの回りで出会う人たちであることが分かります。イエスの時代がいま
にそのまま飛び込んできます。水を求めている人がすぐそばにいること
が分かります。そしてジョン・バニエの澄み切った泉のような文章は、
取りも直さず、傷つき、苦しみ、孤独なのは自分の心であることを納得
させてくれます。教えられて分かったというのではなくて、水を求めて
いるのはサマリヤの女ではなくて自分であると、内側から同意できます。

 『心貧しき者の幸い』にもサマリヤの女のことが繰り返し出ていま
す。その場に居合わせていたかのようです。その場で観察していたので
はなくて、自分があたかもサマリヤの女であったかのように思い描いて
います。サマリヤの女とジョン・バニエがダブってきます。「私たちひ
とりひとりの内に、このサマリヤの女がいます。」と言います。

 そして、「わたしに水を飲ませてください。」と言っているのは、い
まはイエスではなくて、そのようにして知的障害者に接していったジョ
ン・バニエ自身であることが分かります。傷つき、苦しみ、孤独な人の
心にいのちの泉が湧くことで、自分自身が癒されることを経験していま
す。イエスとジョン・バニエがダブってきます。そうすることがキリス
トに従うことであると説いているのではないのです。ただ実践している
のです。

 スカルの井戸辺のことがいまのこととして行われているのです。その
中から語っているのです。短い言葉で、噛みしめるように語っていま
す。何とも言えない聖書の近さ、キリストの近さを感じます。聖書の近
さはキリストの近さであり、キリストの近さは聖書の近さであることが
分かります。

 ヨハネ福音書でイエスに引き寄せられていると、ジョン・バニエは言
います。この福音書の学びを長い間してきて、多くの註解書も読んでき
たことを序文で語っています。註解書はしかし、多くの場合に、スカル
の井戸辺の状況を距離を置いて観察しているだけです。サマリヤの女の
罪深さを嘆いています。イエスのすばらしさを語っています。しかしど
うしても距離があります。外から観ている観察者になってしまいます。
聖書の権威を説き、聖書の無誤性を主張していても、この距離感を持っ
たままで説教をしています。

 ひとりの友人が野宿生活者、路上生活者のための働きをしています。
さまりたんプログラムと呼んでいます。いままでにない視点のメールを
よくいただきます。この方の持たれている聖書の近さ、キリストの近さ
が伝わってきます。そして、聖書を生きる、キリストのように生きるこ
との厳しさを知らされています。

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