ウィークリー瞑想

上沼昌雄(神学博士)のキリスト教神学エッセー

Tuesday, March 28, 2006

「廃墟」

 
 シンガポール、クアラルンプールでの奉仕をしているときに、妻から
エレミア書33章3節のみことばに思いが向いているというメールがあ
りました。「私を呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの
知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」奉仕から
戻って、その箇所の前後を読んでみました。その後に次のように言わ
れています。「万軍の主はこう仰せられる。『人間も家畜もいない廃墟
となったこの所と、そのすべての町々に、再び、群れを伏せさせる牧者
たちの住まいができる。』」(12節)
 クアラルンプールで目にした巨大な廃墟を再度思い起こしました。
10年近くも放置されたままの高層建築物、風雪にさらされてと言って も、
雪は降ることはないので、雨と風にさらされたままの建築物、手つ かず
にそのままにしてあるもの、面倒なのでそのまま放置してあるもの、目障
りなのですが取り除くことができないもの、自分の心の情景をみているよ
うで目を離すことができませんでした。クアラルンプールの 美しい自然と、
ポスト・モダンの超近代建築と、主にある交わりを思い 起こすたびに、
この廃墟が浮かんできます。

 同じような経験をされている姉妹からレスポンスをいただきました。
「私も、廃墟をみるといろんなことを思います。何か、いろんなストー リー
を思い浮かべ、その情景から目を離せなくなります。スラム街が閑静な
住宅地に隣接しているなんていう光景もありました。錆びついたトタン
屋根が切れ間もなくつながっています。何かを実感して思いめぐらすという
ことではなく、ずっと見つづけてしまいます。」

 自分のなかに手つかずに放置したままで廃墟になっているものがあり ま
す。途中で投げ出してしまったものなのか、少しずつ積み重ねられて きて
目障りになってきているものなのか分かりません。どのようにそれに触れ
たらよいのか、どのように取りかかったらよいのか分からないま まで放置
してあります。そのような廃墟は夫婦になってもそのまま居 残っています。
逆に夫婦になったためにより目立ってきたところがあり ます。
それでも互いに取り除けないでそのままになっています。どうすることもで
きないので居座っています。

 廃墟は目障りです。見たくもありません。景観を損ねます。周囲の商品
価値を著しく下げます。それでもそこにあります。そのまま風景の一 部に
溶け込んでしまいます。心の情景の一つになってしまいます。あた かも
人格の一部のような顔をしてきます。そこに居直ってしまいます。
それでも外観を損ねます。どこかで心の醜さを露呈していきます。
 「人間も家畜もいない廃墟」に「再び、群れを伏せさせる牧者たちの
住まいができる」という主のことば、取りも直さず神が廃墟を見ておら
れるという事実、神はそのままにはしておかないという約束、自分のな
かの廃墟がどのようにいのちのあるもに変えられていくのかという期
待、預言者エレミアの悲哀と希望を感じます。

Monday, March 20, 2006

クアラルンプール

「クアラルンプール」2006年2月23日(木)
 先週の金曜日の朝バスでシンガポールを出発して、30分もしな いうち
に国境を越え、マレー半島を北上して5時間の旅をしてクアラ ルンプール
に到着しました。加藤先生が迎えに来てくださいました。 ちょうど金曜の
午後の回教寺院の祈りとスコールに見舞われ市内は車で 混雑していま
した。稲妻が何度か走り去っていきました。そのために 15階にある先生
のお宅はスコールの後の気持ちのよい風が吹き抜けてい きました。
 その夜の集会は仕事を終えた方々と一緒に加藤先生の奥様の日本の
手料理をいただいて始まりました。今の自分の心を色で表すとどのように
なるでしょうかという自己紹介をしました。そして、ガリラヤ湖で大嵐 になっ
て眠っていたイエスに助けを求めた弟子たちのことを自分の体験 を紹介
しながらお話ししました。その晩は扇風機も止めてタオルケット 一枚で気
持ちのよい汗をかきながら眠ることができました。土曜の朝は 回教寺院
のスピーカーから流れる朝の祈りで目を覚ましました。そして 数名の方と
早天祈祷会を持ちました。
 その後先生のお働きのことを伺い、昼前に帰りのバスの手配をし、
市 内見物に連れて行ってくださいました。一時世界一高いと言われた
ツイ ンタワーや、三日月の半分のような高層建物や、突端が45度の角
度で 切れているオフィスタワーなど、まさに建築用語として始まったポスト
モダンの超近代建築を観ることになりました。
椰子の原始林がまだ残っ ているようなマレー半島の真ん中でポストモダン
に出会いました。植民 地時代の建物もところどころにありました。
バスの発着場はバンコック とシンガポールを結ぶオリエンタル・エキス
プレスのかつての駅であっ たと言うことで、面影のあるプラットホームに
立ってみました。
 お昼を先生とチャイナタウンで麺類をいただきました。マレーシアは
マレー人が60%、中国人が30%、インド人が7%と 言うことです。
かつてNHKの特派員、ニュースキャスター、番組 局長であった先生は世
界を自分の手の内のように動かれます。引退後神 学校で学ばれ、
かつていたクアラルンプールに牧師として戻ってこられ ました。奥様とも
豊かに楽しく尊い第二の人生を送られています。
その夜は日本人会で親子どんぶりと太巻きを食べました。
ライブラリーが あってそこで村上春樹の本を見つけてしばらく読んでいま
した。
 礼拝は午後4時からです。その前に役員会があるというので早めに出か
けました。借りている教会の新会堂が出来上がっているのですが、
も うかれこれ一年近く役所からの使用許可がおりないという回教国の実
質 的な弾圧というか、締め付けを目のあたりにしました。
まだ見通しが 立っていないようです。礼拝は20名ほどの方と守りました。
雅歌 から夫婦がたとえで互いに呼び合うことと、キリストと私たちの霊の
歌 との関連を話しました。その前の火曜日がバレンタインディーであった
ことと関係づけました。
 その後教会の方々とスティームボートという鍋料理を夕陽を浴びなが ら
美味しくいただきました。どのような関わりでマレーシアに来られて いるの
か経過を伺うことができました。語り出したら夜更けになり、次 の日に
なってしまうほどの深く長いストーリーをひとりひとりが持たれ ています。
少しでも分かち合うことで不思議に導きを感じます。神の御 手の中に生か
されていることが分かります。その後先生のお宅でコー ヒーをいただきな
がら、男性集会から雅歌に至った道筋をお話ししまし た。妻の話を聞きく
ことも、妻をたとえで呼ぶこともどこかで霊的なこ とだと分かります。
 月曜日の朝は教会の方のお宅での婦人集会でした。自分を花でたとえ
るとどのような花になるのかということを自己紹介でしました。
そして 「畑に隠された宝」のことから、ナルニア国物語のファンタジーのこと
を話し、自分の心の隠された世界のことを分かち合いました。
自分の心 を観ることで、神への窓が開かれくるのです。
その後先生に送っていた だき、短いときでしたが豊かな恵みの時を後にし
て、バスでシンガポー ルに戻ってきました。
今回クアラルンプールへの紹介をしてくれた兄弟 が迎に来てくださいました。
そして次の日にシンガポールからロスアン ゼルスへの直行便で無事に
戻ってきました。多くの方の祈りと配慮に支 えられてきました。
 クアラルンプールの建物のことで不思議な情景に出会いました。
高層 住宅があちこちに建ち並んでいます。ポストモダンの超近代建築もあ
ります。そんななかで先生のお宅のベランダから道を隔てて、作りかけで
倒産してそのまま10近く放置されたままの2棟の建築物が見えま した。
13階まで建てられ、その上に更に延ばしていくためのス ティールがむき出
しになっており、クレーンもそのままです。10 階ぐらいまでは壁も張ってあ
ります。しかし上の方はすでに黒いカビが じわじわと建築物を浸食してい
ます。内部は雨や湿気で浸食が激しいよ うです。外側も骨がゆっくりと
腐っていくような感じを呈しています。 まさに廃墟です。
 複雑な事情で放置されたままだと先生の説明をいただきました。
マ レーシアらしいと言うことです。それでも不思議に目が向いてしまいま す。
10年近くも放置されたままの高層建築物、風雪にさらされて と言っても、
雪は降ることはないので、雨と風にさらされたままの建築 物、手つかずに
そのままにしてあるもの、面倒なのでそのまま放置して あるもの、目障り
なのですが取り除くことができないもの、自分の心の 情景をみているようで
ベランダから離れることができませんでした。
不 思議な風景のおみやげをいただいて帰ってきました。