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「<ある>の恐れ」 2006年11月27日(月)
アウシュビッツが解放されてヨーロッパでの大戦が終結した後に、ユ
ダヤ人でありながら捕虜収容所に入れられていたために生き延びること
になったが、リトアニアの親族のほとんどがホロコストで絶滅したこと
を知った後に書いたレヴィナスの『ある』(1946年)という論文
がある。不思議にその時に彼が見た心の風景が浮かんでくる。じっと耳
を澄ませて見つめているユダヤ人哲学者の眼に映るおぞましい光景が観
えてくる。歳40の坂を越えたときであった。
それは私が1歳そこそこの時であった。故郷の前橋も終戦直前に空襲
で焼け野原になっていたはずである。記憶にあるのはすでに家が建ち並
び、人々は食べるために忙しく働いていた、一瞬たりとも後ずさりでき
ないという張りつめた空気であった。銃弾の跡を残した橋桁や、駐留軍
のジープや、かなり低空で飛んでくる輸送機の轟音であり、何とか手に
したコッペパンである。同じように空襲を生き延びた同僚の竹本邦昭牧
師も近くで同じような光景を見ていたはずである。
レヴィナスの哲学を読むと、不思議に私のなかの原風景ともいえる自
分の存在と自分の外の存在への恐れのようなものを思い起こす。自分の
存在と自分の外の存在といっても、結局は自分も自分の外も「存在して
いる」という、付きまとって離れない一種のおぞましさである。「非人
称、匿名であるが、消化することのできない存在のこのような焼尽、無
その自体の奥底で囁くこの焼尽、われわれはそれを<ある>(il ya
イリヤ)という語で表現する。」
「ある」は「私」という主体をも飲み込んでしまう。私が存在しなく
ても「ある」はあり続ける。15年近くのヒットラー主義がそれまでの
価値観を覆すようなかたちで終わっても、生活を織りなしている事物は
昔ながらの姿で存在し続けている。「なんてこった、明日もまた生きな
きゃならない。」そのことに気づいて「ある」の奥深さに恐れを覚える。
「赤城の住人の高木です」といって今回大間々の教会に招いてくだ
さった高木寛牧師のいつものメールの書き出しで、赤城山の麓で過ごし
た少年時代の記憶がよみがえってくる。夕陽でまさに赤く染まっている
赤城山を家の外の道から北の方に眺めながら、一種の重さ、「なんて
こった、明日もまた生きなきゃならない」という科白はとうてい思いつ
かないのであるが、それに通じ通じるようなどこにも行けない、逃れよ
うのない恐れを覚えた。赤城山は今でもそこに存在している。
そんな「<ある>がそっと触れること、それが恐怖だ。」しかもそれ
は捕らえることができない夜に忍び込んでくる。捕らえようとして手を
差し伸べても何も捕らえることができないだけでなく、自分すらも解体
してしまう真っ暗な闇である。「恐怖とはある意味では、意識からまさ
にその主体性を剥ぎ取る運動である。」私が存在していなくても赤城山
は存在し続ける。それでも私が存在している限り、「実存という荷物を
永久に引き受けなければならないという宿命、それが夜の恐怖なのだ。」
夜の存在論、闇の存在論とも呼ぶことができる。昼の存在論、光の存
在論の手前にじっと静まりかえって沈黙を守っている夜の存在論が語り
かけている。あたかも「こうして夕があり、朝があった」と言われてい
ることが意味があるかのように夜が前面に出てくる。じっと意識の背後
に隠れていて、ある時「ある」がそっと触れてくる。恐怖の夜のように
触れてくる。赤城山の麓で刻まれた原風景のなかに沈んでいた存在の重
み、存在することへの恐怖がレヴィナスを通して意識のなかによみが
えってくる。
上沼昌雄記