ウィークリー瞑想

上沼昌雄(神学博士)のキリスト教神学エッセー

Tuesday, November 28, 2006

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「<ある>の恐れ」 2006年11月27日(月)

 アウシュビッツが解放されてヨーロッパでの大戦が終結した後に、ユ
ダヤ人でありながら捕虜収容所に入れられていたために生き延びること
になったが、リトアニアの親族のほとんどがホロコストで絶滅したこと
を知った後に書いたレヴィナスの『ある』(1946年)という論文
がある。不思議にその時に彼が見た心の風景が浮かんでくる。じっと耳
を澄ませて見つめているユダヤ人哲学者の眼に映るおぞましい光景が観
えてくる。歳40の坂を越えたときであった。

 それは私が1歳そこそこの時であった。故郷の前橋も終戦直前に空襲
で焼け野原になっていたはずである。記憶にあるのはすでに家が建ち並
び、人々は食べるために忙しく働いていた、一瞬たりとも後ずさりでき
ないという張りつめた空気であった。銃弾の跡を残した橋桁や、駐留軍
のジープや、かなり低空で飛んでくる輸送機の轟音であり、何とか手に
したコッペパンである。同じように空襲を生き延びた同僚の竹本邦昭牧
師も近くで同じような光景を見ていたはずである。

 レヴィナスの哲学を読むと、不思議に私のなかの原風景ともいえる自
分の存在と自分の外の存在への恐れのようなものを思い起こす。自分の
存在と自分の外の存在といっても、結局は自分も自分の外も「存在して
いる」という、付きまとって離れない一種のおぞましさである。「非人
称、匿名であるが、消化することのできない存在のこのような焼尽、無
その自体の奥底で囁くこの焼尽、われわれはそれを<ある>(il ya
イリヤ)という語で表現する。」

 「ある」は「私」という主体をも飲み込んでしまう。私が存在しなく
ても「ある」はあり続ける。15年近くのヒットラー主義がそれまでの
価値観を覆すようなかたちで終わっても、生活を織りなしている事物は
昔ながらの姿で存在し続けている。「なんてこった、明日もまた生きな
きゃならない。」そのことに気づいて「ある」の奥深さに恐れを覚える。

 「赤城の住人の高木です」といって今回大間々の教会に招いてくだ
さった高木寛牧師のいつものメールの書き出しで、赤城山の麓で過ごし
た少年時代の記憶がよみがえってくる。夕陽でまさに赤く染まっている
赤城山を家の外の道から北の方に眺めながら、一種の重さ、「なんて
こった、明日もまた生きなきゃならない」という科白はとうてい思いつ
かないのであるが、それに通じ通じるようなどこにも行けない、逃れよ
うのない恐れを覚えた。赤城山は今でもそこに存在している。

 そんな「<ある>がそっと触れること、それが恐怖だ。」しかもそれ
は捕らえることができない夜に忍び込んでくる。捕らえようとして手を
差し伸べても何も捕らえることができないだけでなく、自分すらも解体
してしまう真っ暗な闇である。「恐怖とはある意味では、意識からまさ
にその主体性を剥ぎ取る運動である。」私が存在していなくても赤城山
は存在し続ける。それでも私が存在している限り、「実存という荷物を
永久に引き受けなければならないという宿命、それが夜の恐怖なのだ。」

 夜の存在論、闇の存在論とも呼ぶことができる。昼の存在論、光の存
在論の手前にじっと静まりかえって沈黙を守っている夜の存在論が語り
かけている。あたかも「こうして夕があり、朝があった」と言われてい
ることが意味があるかのように夜が前面に出てくる。じっと意識の背後
に隠れていて、ある時「ある」がそっと触れてくる。恐怖の夜のように
触れてくる。赤城山の麓で刻まれた原風景のなかに沈んでいた存在の重
み、存在することへの恐怖がレヴィナスを通して意識のなかによみが
えってくる。

上沼昌雄記

Tuesday, November 21, 2006

大村晴雄先生と聖書研究

 日本を発つ前日に大村晴雄先生を訪ねることができました。5月の時
には骨折の後でリハビリのために入院をされていました。その後どのよ
うにされているのか気になっていました。一ヶ月前にご自宅に帰ってく
ることができ、ご家族の方が同居されてお世話をされているとのことで
す。車いすですがお元気な様子でした。

 拙書『夫婦で奏でる霊の歌』をお渡しすることができました。虫眼鏡
を使って目次をじっくりと調べておられました。そして今朝の聖書研究
もイザヤ書の5章の「ぶどう畑についての主の愛の歌でした」と言われ
ました。お宅に11名集まられたということです。すでに長い間続いて
いるもののようです。

 その聖書研究は先生が講義をされているということです。それで5月
の折りに病院でその箇所についてユダヤ人が書いた註解書のことで質問
されてこられたことが分かりました。この時のための準備をすでにして
いたのです。しかもヘブル語で確認をしているのです。

 いつもは哲学のテーマが話題になるのですが、しばしヘブル語の世界
のことを語り合いました。特にヘブル語の時制では完了と未完了だけで
現在形がないことを尋ねてきました。哲学では「永遠の今」という概念
で神の現在性を確認しているけれど旧約の世界ではどうなっているのか
とことです。

 返答に困ることでした。しかし最近レヴィナスの本を読んでいてユダ
ヤ人が持っている時間観で気づいたことをお話ししました。ホロコスト
を経験していながらレヴィナスにとっては神はいつも「アブラハム、イ
サク、ヤコブの神」であるのです。「哲学者の神はいない」ようなこと
を言っています。何と言ってもアブラハム、イサク、ヤコブの神で、時
間も空間も超えて通じてしまうユダヤ人の世界があることを、レヴィナ
スを読んで感じていました。

 大村先生も「アブラハム、イサク、ヤコブの神か、うん、なるほど」
と2,3回言われました。しばし沈思黙考の時となりました。西洋の時
間観では捉えきれないものを旧約の世界が持っていることに共感して、
言葉がないときが続きました。ただ自分たちの神がアブラハム、イサ
ク、ヤコブの神であることを感謝しているようでもありました。まさに
そうなのです。

 96歳になられてもなお真理を探究している姿勢にプロテスタントの
精神をみるおもいでした。真理であるキリストを知っても、その真理に
関わる真理をさらに追い求めているのです。そのために開かれた心があ
るのです。自説を留めてなお聞いていく勇気があるのです。時の流れの
向こうを行く超越があるのです。真理を愛する愛智があるのです。枯れ
ることのない泉があるのです。