ウィークリー瞑想

上沼昌雄(神学博士)のキリスト教神学エッセー

Monday, November 28, 2005

モダンとポストモダンと福音主義

神学モノローグ 2005年11月 28日(月)

雑誌クリスチャニティー・ツデイーの10月号の最後の3分の1 ページは各種神学校の宣伝になっている。それに沿ってNot Your Father’s Seminaryという記事が載っている。過去25年の 神学校の置かれている社会、国、世界の変化に神学校がどのような変革 をしてきているのか、またしなければならないのかを的確にまとめている。

神学校の宣伝にはよく耳にする学校の名前が連なっている。この四半世紀の変化は、社会現象的にポストモダンと言われている。 モダン、すなわち西洋の近世以来、理性の自律を確立して築き上げられ てきた認識論と世界観のなかで普遍的な真理が標榜されてきた。しか し、そのような価値観や世界観が全面的には通用しない事態になってき ている。

すなわち西洋社会の聖書観や宣教論が必ずしも絶対でない現実 に直面してきている。アメリカの社会自体が宣教地となってきている。 また善し悪しの問題ではなくて、物質主義的な傾向から、人々が内面的 な世界に目を向けてきている。コンピュータ情報化時代が価値観の多様 化に拍車をかけている。確かに過去四半世紀はコンピュータの進展の時 代であった。

福音主義神学は避けることのできないかたちで、モダニズムの理性中 心主義の流れのなかでそれぞれの教派の神学を築いてきた。福音主義神 学が普遍的な真理として提示されてきた。それが通用したときがあった。

あなたのお父さんが神学校で学んだときはまだそれで充分であった。しかしそれだけでは対応しきれないときになってしまった。文化と 価値観の多様化の時代になっている。人々が知的なことより霊的なことに関心を持ってきている。善し悪しの問題ではなくて、ポストモダンが 市場になっている。カリキュラムの変更をもたらしている。そうしなければ経営もできなくなってきている。

福音主義はポストモダンを敵のように見ている。自分たちが築いたも のが崩されると思うからである。その論理は福音主義がモダン、すなわ ち近世を精神基盤としていることを意味している。あるクラスで、神の存在を弁証論で全面的に証明できると言った教授の話を思い出す。その ときには自分でもできるかも知れないと思った。最近恩師の大村晴雄先生の言われた言葉を思い出す。日本には近世(モダン)がないので、ポ
ストモダンもないと。近世哲学史が専門の先生の言葉に唸らされた。

モダンの行き詰まりに気づいて人々はその枠からはみ出してきている。その流れは止めることができない。社会のすべての面に現れてきている。教会にも影響してきている。同時にそのような人たちに福音を届 けている牧師もいる。際だってすばらしい説教をしているわけでもない。誰もができような話をしている。それでいて多くの人の心の届いている。福音が生きている。聖書が生き返ってきている。

福音主義神学は時代の産物である。聖書は神の作品である。福音主義が、避けることができないポストモダンの流れを敵としてではなくて、挑戦として受け止める時が来ている。そして、福音主義のなかにあるモダニズムによる理性中心主義のシフトを変えることができる。

聖書に対する全人格的なアプローチをもたらすことができる。そのように聖書を捉える枠を広げることによって、聖書の豊かさをさらに余すことなく言い表し、伝えていくことができる。依怙地になって自分たちの神学が絶対に正しいのだと言って、凝り固まってしまう必要はない。柔軟に構えて世界を見回し、人々の心に耳を澄ませる時が来ている。

上沼昌雄記

Tuesday, November 22, 2005

新しいフォーマット

ウイークリー瞑想  2005年11月21日(月)

新しいコンピュータに今までのものをすべて転送して、使い出して一週間ほど経ちました。新しいおもちゃを手にして喜んでいる子どものような感覚で使い始めたのですが、結構いろいろなところで調整が必要になってきています。iBookの機能には日本語がそのまま使えるようになっています。iBookG4ではそれがさらに徹底してきているようです。

それでも基本的には英語環境のなかで日本語を使用しているという感覚は残っています。新しい仕様方式になって、半角の取り方、カタカナへの変換、句読点の位置などで調整が必要になりました。そして慣れるのに結構時間がかかります。新しい仕様環境にいることを認めることに抵抗を感じてしまいます。前のもののほうが使いやすかったと思うときもあります。

いずれは慣れていくのだろうと自分に言い聞かせています。新しい機能を楽しんでもいます。それでもまだどこかで居心地の悪さを感じています。新しいコンピュータの仕様方式を認めたくない変な意地も出てきます。同時にその新しい機能をもっと知りたいと思います。自由にコンピュータを操ってみたいとも思います。

新しいコンピュータを楽しんでいる自分と、慣れるのにいらいらして不機嫌になっている自分に気づいて、いま自分が神様の新しいフォーマットに置かれていてもがいている姿を語っているように思えてきました。振り返ってみると、この1年でも自分の置かれている環境も随分変化してきています。妻の闘病があり、子どもが結婚していきました。この3月に還暦を迎えました。ミニストリーの事務所を物置に移動しつつあります。山の教会の暗転があります。理事として関わっているJCFNの太平洋を挟んだとてつもない大きな展開があります。

神様がシフトを変えて来ています。今までのものでは対応しきれないフォーマットになっています。調整するのにいらだっている自分がいます。前と同じままで動こうとする自分がいます。今までのほうがよかったと思っている自分がいます。変革を恐れている自分がいます。これからどうなるのだろうかと心配している自分がいます。神様の新しい皮袋の前で古い皮袋を握っている自分をみます。

コンピュータの場合は、キーボードのどこを押せばシフト変換ができ操作ができるかを、マニュアルをたよりに学んでいくことができます。いらいらしながらも少しずつ対応きます。神様のフォーマットは同じようには行きません。何とか変革をし、操作を覚えて神様のフォーマットになれたかと思うと、また次のまったく異なったファーマットが出てきます。どのように対応し、調整したらよいのか迷います。ようやく慣れたと思ったらまた新しいキーボードが出てきます。その都度新しいファーマットに対応することになります。しかもマニュアルがありません。いつも試行錯誤です。

コンピュータの場合はマニュアルをしっかり読めば何とか分かります。聖書はマニュアルではありません。いろいろな試行錯誤のパターンの収集本のようです。じっくりと読んで行くと、神様のフォーマットに合わないでもがき、いらだっている神の民の苦悩が聞こえてきます。

上沼昌雄記

新しいコンピュータ

ウイークリー瞑想 2005年11月15日(火)

3年以上使っていたマックのiBookのスクリーンが不調を来してきて、思い切って新しいiBookG4を購入しました。3年間の保証期限を過ぎてしまったので、修理に出すのと新しいものを購入するのとどちらが良いのかの判断が求められた末での決断でした。この記事は最初の作品になります。

ミニストリーではコンピュータを、メールでのやり取り、ウイークリー瞑想や神学モノローグ、ニュースレターなどの執筆で毎日のように使っています。コンピュータはミニストリーにとってなくてはならない道具です。それよりもコンピュータの進展とともに歩んできたと言っても過言ではありません。16年前に小さなマックをいまの値段の3倍は出して買いました。機能はいまのものに比べたらほんの幼稚なものでした。それから数えるとこの新しいiBookG4が5台目になります。まさに5代目です。機能は比較にならないほどです。

最初のかわいい箱のマックでミニストリーの最初のモノグラフ『三位一体の神』(1991年)を書きました。それから『存在の感謝』『痛みと苦しみ』『三位一体の神との祈り』『結婚の神学』等を出して、それらを用いてセミナーをしてきました。インターネットができるようになってからミニストリーとしてのホームページを開設し、ウイークリー瞑想と神学モノローグの記事を定期的に発信してきました。

前のiBookになって男性集会のことを書いてみたいと思って『夫たちよ、妻の話を聞こう』としてまとめました。原稿を自分のコンピュータからそのまま出版社に送るという離れ業ができることが分かりました。作家の村上春樹はマックでないと文章が書けないと言っています。ただ川端康成の文章はコンピュータでは書けないようなことを言っています。

自分の周りで起こったことと自分の心が結びついて『苦しみを通して神に近づく』を同じようにiBookで書きました。スクリーンの中の自分の原稿とにらめっこをしていました。最初は『夫たちよ、、、』の続きを書こうと思っていました。しかし不思議に神が『苦しみを、、、』を書くように導かれました。その意味は私にとって計り知れないものがありました。

この夏の始まり頃から雅歌を用いての夫婦のことを書き出しました。男性集会から始まって夫婦のセミナーに至った道筋を、雅歌を追いながら書いてみました。原稿の推敲を始めた頃からスクリーンの不調が出てきました。何とか持ち堪えさせながら推敲を一応終えて、原稿を脱稿することができました。日本時間のこの月曜の朝でした。

新しいiBookG4を起動して驚いたのは、前のiBookのドキュメントを含めてすべてを転送しますかと問いかけてきたことです。一応大切なものは保存をしてきたのですが、いままでのメールやアドレスはやり直さないといけないと思っていましたので、大変助かりました。コンピュータが分かっている人にとっては当然のことなのですが、20分ほどで前のものをそのまま使いながら新しい仕様の下でいままでの続きを始めることができました。

自分の働きを風のようなミニストリーと思うときがあります。インターネットでどこにでも飛んでいくことができます。もちろん顔を合わせ、語り合うことはもっと大切です。私もそれを必要としています。それでもいまの時代にインターネットを通してどこにでも繋がることができます。日本、シンガポール、東海岸と信じられないほど遠く離れていても、どこかで共鳴と共感が生まれてきます。それが御霊によるものであることを願いつつミニストリーをしています。

上沼昌雄記

Wednesday, November 09, 2005

年をとることと霊的識別

ウイークリー瞑想   2005年11月7日(月)

前回のウイークリー瞑想「霊的観測」に対して、同年輩の方々からレスポンスをいただきました。神のみこころ、神に喜ばれることを「見分ける」霊的識別に関して、失敗をしてきて、いまだに難しさを覚えますという告白に近いものです。ひとりの方が次のように書いてくださいました。

「『何が正しく、神に喜ばれるかを見極める』ことは、いつも求めていながら、自分でも実現しているとは思えません。自分でも気がつかないうちに、これとは逆なことをしていることもあります。自分の性格や習慣も関係しているかもしれません。でも、この自分の弱さを認めつつ、神との正しい関係に立ち返ることが、大切なのかもしれませんね。日々祈りつつこの修正作業をしています。」

この方は拙書『夫たちよ、妻の話を聞こう』の「ある男性の物語り」の項目で証を書いてくださいました。そこで言われていることを思い出しました。「格言2ーー人は歳をとるほど『良い人』になるわけでない。」

人は年をとれば、それなりに経験を積み、見識も豊かになり、それなりの風格も備わってきます。

そのために社会的に責任のある仕事を任されます。私もある団体の責任をいただいています。年相応のことと納得しています。しかし内面的な面で振り返ってみると、神に喜ばれることを見極めることに関して、判断し損ねてきたことをむしろ思い出します。うまく見極めることができたという痛快さより、失敗してきたという悔いのほうが先に出てきます。どこかで自分のエゴやプライドで判断してきたことを知らされます。そして同じようなことを繰り返してきたようにも思います。

それでは恵みがなくなってしまったかというと、そうではないことも知らされます。失敗をして遠道をしても、どこかで修正をいただいています。それが自分の通るべき道であったと納得もいただいています。ただ現実に見損なってきたことを思い出します。年をとったしるしなのかとも思います。

前回の瞑想の最後に書きました。「取りも直さず、私自身これからの歩みでも、みこころを求め、判断していかなければなりません。」そして「この言葉に共鳴しました。」という一言のレスポンスもいただきました。この方も年とともに同じような難しさを経験しているのだろうと想像しました。

年とともに私のなかにももいろいろな経験があります。少しは知識もあります。しかしそれをたよりにしてしまったら、また見極めることで失敗をしてしまうのだろうとも薄々感じます。どこかでいつも自分の知識や経験で判断をしようとする力を感じます。しかし、それらを引っ込めて白紙の状態で神のみこころを求めていくことが、年とともに必要なのだろうと思わされています。結構難しいことです。「日々新たにされる」(2コリント4:16)ことの一面なのかも知れません。

上沼昌雄記

霊の祭典

ウイークリー瞑想   2005年10月26日(水)

昨日まで北加日本人クリスチャン・リトリートが、スタンホード大学の近くのカトリックの施設を借りてありました。この数年はこの時期に日本で奉仕をしていましたので、しばらくぶりに参加することができました。北加というのは北カルフォルニアのことです。サンフランシスコ、バークレー、サンフォゼ、サクラメント、フレスノを中心に30ほどの日本人教会があります。27の教会から150名の参加をいただきました。講師は日本からの村上宣道先生でした。

リトリートはこの十数年少しずつ参加者が増えてきました。元々は戦前からあったリベラルの教会の流れをもっていたために、福音的な二つの団体が参加を拒否してきました。サクラメントの荒井牧師がキリストにある一致を求めて、北カルフォルニアの日本人教会、クリスチャンを忍耐をもって励ましてきました。いずれは消えてしまうのではないかと思ったこともあります。

今回参加して大きく飛躍していることが分かりました。驚きました。荒井牧師が最後の日の早朝祈祷会で、北カルフォルニアで結構随分の教派があるのですが、その違いを越えてほとんどの教会からの参加者をいただき、心をひとつにして賛美し礼拝をささげていることを、「霊の祭典」と表現されて感謝の祈りをささげました。お祭り騒ぎのように浮かれているわけでありませんでした。

メッセージを通して参加者が静かに神に聞いていることが分かりました。それを霊の祭典と言われて、なるほどと思いました。

リベラルの教会を母体に始まったことなので今でも参加を拒否している牧師もいるようです。現実にはそのような教会から信徒が参加しています。このリトリートには何かを惹きつける霊的な魅力があります。決してある方向に参加者を導こうとしているような力ではありません。むしろ示され気づかされたことにそれぞれが進んでいく喜びと自由です。御霊の自由です。自由ですので各自の思いのまま動いています。それでいながら御霊に導かれているので、教派でも、教会でも、講師でも、奉仕者でもなく、神に向いていることが分かります。

霊の祭典に参加することで、神の国での私たちの集まりを想像することができます。この地上での教派や教会の違いが消えます。キリストあって生かされている恵みを共に感謝できます。御霊の自由をより深く経験します。霊的な魅力が際だってきます。参加者が輝いてきます。救いにあずかる人が起こされます。恵みのサプライズが増えてきます。

地上での苦しみにまさる恵みの豊かさを想像できます。今までの人生を感謝できます。神の家族の一員であることをうれしく思います。

牧師や指導者は自分の教派や教会の教えが一番正しいと思うので、違いを大切にします。信徒それよりも霊の祭典を求めます。霊的に何が真実なのかを見極めています。それを聞きつけて集まってきます。そのような場を提供していく責任があります。北カルフォルニアで日本人クリスチャンが霊の祭典を体験しています。神が何かをなそうとされていることを感じます。

上沼昌雄記