ウィークリー瞑想

上沼昌雄(神学博士)のキリスト教神学エッセー

Wednesday, October 19, 2005

どうすることもできない自分

神学モノローグ 2005年10月19日(水)

ベストセラー『愛と心理療法』『平気でうそをつく人たち』の精神科医スコット・ペックが9月25日に亡くなった。69歳であった。彼のことを「神学モノローグ」(2月8日、3月7日、3月21日付)で書いていることを知っている次女の泉が、勤務しているワシントンポスト紙の死亡記事を送ってくれてた。癌でなくなったこと、霊的な成長のための手引き書にまでなった本を書いていながら現実には彼自身がそれに従うことが難しかったこと、亡くなる一年前に離婚をし再婚をしていたことが書かれてあった。

彼自身のことを知る手がかりとしてIn Search of Stones (1995)が紹介してあった。絶版になっていたが古本屋から手に入れることができた。イギリスの古代の巨石を訪ねる旅日記であるが、どうしてそのような旅をしなければならないのかという問いから始まる魂のジャーニーでもある。精神科医として治療に専念すればするほど、闇の世界、神秘の世界に引き込まれるというの告白の書である。患者に関して、自分に関して、自分の結婚に関してまさにミステリーの闇により包まれていることの証である。自叙伝あり、自叙伝もないと断っている。

夫婦で旅を続けながら、自分の性的な弱さ、奥様のうつ病、自分の不安神経症、子どもたちとの断絶、父親のこと、印税で入る巨額のお金のこと、まだ全部読み終わっていないが、精神科医としての自分の世界をそのまま書いている。患者のことではなくて、自分のことを書いている。患者を助けることができても、どうすることもできない自分のことである。自分が自分にとって一番やっかいな存在である。

自分のことをそのまま書いたら、どのように評価のかは分からない。死亡記事は外面的なことを追って書いているだけである。スコット・ペックはそのような危険を承知していても、なおあえて自分のことを書かなければならない必然性を感じていた。悪や邪悪は、自分の影の世界を見ることを拒むことから始まると言う。人に隠し、自分に隠し、結局神に隠してしまうことから始まると理解している。

自分の闇の世界、影の世界を見つめていったら、心はより暗くなる。そのような状態に何ヶ月も陥ってしまったと言う。それをあえて認め、受け止めることで這い出すことができた。霊的な成長は、この闇の世界に光りを当てることである。それはつらいことであるが、避けることができない。

パウロは、自分のうちに住みつく罪に気づいていく手がかりとして、十戒の「むさぼってはならない。」
をあげている。パウロにとってそれが現実にどのようなことであったのかは知ることはできない。今流には
アディクション(依存症)とも言える。何かにしがみつくことで心理的な安心感を保つ手段である。性
であり、物であり、お金であり、趣味であり、妄想である。自分のなかでどうすることもできない自分を認
めることでパウロは、アダムからの罪を知ることになる。そして、キリストの恵みをより深く知ることになる。

私はスコット・ペックと同じように自分のことを書くことはできない。勇気がないのと、書き出したら自分
がどこに行くのか分からないからである。しかし、パウロと同じように自分の罪を知らされる手がかりは気
づかされる。そこに光が当てられることで自由にされることが分かる。それゆえにキリスト
によりしがみついている以外にない。

それにしても亡くなる一年前に離婚、再婚をすることになったスコット・ペックの複雑さに震えている。

上沼昌雄記

Thursday, October 06, 2005

心と心の伝道

神学モノローグ  2005年10月3日(月)

教会ストライキを終えて、何度か妻の両親の教会の礼拝に出席した。まだ若い牧師で、手真似をしながら言葉巧みに説教をする。プログラムや音楽も整っている。コミュニケーションのうまさと、パフォーマンスのすばらしさはアメリカの集会でもいつも感心させられる。アメリカの社会の顔になっている。政治も宗教も見せ物としては一流である。

それでありながら、ある説教者の語ることに聴衆が共鳴し集まってくる。何によっているのか、アメリカの教会をみながらいつも関心を持ってみている。この牧師もリック・オーレンに心酔しているようで、似たような話をする。それでいながら明らかに違いがある。社会学的に調査しているわけでない。霊的な意味で関心がある。

政治家でも、俳優でも、その人の語ることに惹きつけられるものを感じるときがある。私だけの感じなのでまったく直感的なことである。個人的なことである。でありながら、同じように何かを感じてその人のところに人が集まってくる。言葉の巧みさではない。その意味で、先日のロバーツ判事の最高裁長官就任のための上院での公聴会のやり取りを大変興味深く聞いた。

そんなことを思い巡らしていたときに、不思議に神学校での特別講義を思い出した。カリフォルニアをベースに働かれていた豊留先生の「心と心の伝道」という一週間の講義であった。人の心に届くための実際的な手がかりとして、ひとつのことを語られた。電車の吊革につかまりながら、目の前に座っている人をじっと見つめて、その人の人生を思い描いてみるということであった。

この一言で「心と心の伝道」の意味を自分なりに納得できた。ミニストリーで旅に出て、飛行場で、駅でじっと人を眺めることがある。先日は病院でじっと人を見つめてみた。
ヨハネが「じっと見」(1ヨハネ1:1)と言っている。

どうして豊留先生の言われたことを思い出したのか分からない。何かに引っかかって記憶が出てきた。
じっと見つめてその人の心を思い見ることは、どこかで自分の心を見つめることなのだろうと思う。見つめてその人の人生を思い巡らすのは、結局自分の人生を思い巡らすことの延長線上で可能なのであろう。そのことで共通の世界が開かれてくる。その人の顔立ちや表情や雰囲気を見つめて、自分の経験を思い起こし、その人のことをさらに思い巡らすことになる。

人を惹きつける説教は、説教者が結局自分に語りかけていることに、会衆が共鳴しているからであると思う。説教者が、会衆を見つめながら、自分の心を見つめているからである。会衆のために語っているのではない。自分に語りかけている。みことばを自分が一番必要としていることを知っている。

聖書の世界に入っている。そこで楽しんでいる。説教者のこの心、神との語り合いに聴取が参加している。自然に神の世界に導かれている。そこには限界がない。自由がある。何千人と集まっていても、みことばと自分だけの世界を経験する。

アラン・アルダという俳優がいる。古いテレビドラマで「マッシュ」というのがある。再放送を妻とよく見ている。仕草や語ることに惹きつけるものがある。最近自叙伝を出した。分裂症の母親の元で育ってきたと言う。心に深い苦しみをもっていることが分かった。その苦しみが俳優としての深みを与えているのであろう。次女の泉がワシントンポストのオンラインで、この水曜日に彼のインタビューをするという。

上沼昌雄記