愛の神秘と存在の奥義
神学モノローグ 2005年3月21日(月)
スコット・ペックの本を紹介してきた。『平気でうそをつく人たち』を最初に紹介してくれた友人が『愛と心理療法』を読み出して、同様に興味深い本だとメールをくれた。『平気でうそをつく人たち』を紹介してくれたときの経緯を覚えている。主の栄光のための奉仕をしていてもどこかで自分のための働きにすり替えられているところから来る難しさを共に経験させられていた。
聖書を使っているので本当らしく聞こえるのであるがどこかですれ違いがあってうそになっている難しさ、それを指摘されることを極端に嫌う頑迷さ、真実らしく見せる巧妙さをこの本を通して確認させられた。数年前のことであった。
今回『愛と心理療法』(The Road Less Traveled)を読むことになった。別の友人は何度も線を引きながら読んだと言われた。ペックはこの本を書いた時点ではまだキリスト教信仰を告白していなかった。しかし書かれていることはキリスト教の中心である愛の本質をだれよりも深く把握していることを示している。しかも霊的な(精神的な)成長は自己犠牲の愛を抜きにしてはあり得ないと言う。彼にとって信仰告白は当然の結果であった。
ペックは精神科医として人間を深く観察してきた。自分の周りの世界を自分の心を中心に見ることしかできないか、自分を出て他の人と共感できるかで生き方が別れる。自分の外の世界を自分のためでしか見られないナルシズム、自己愛と、自分の世界を勇気を持って出て、外の世界の現実を直視、人の世界に共鳴できる犠牲的な愛である。自我の境界を乗り越えることができるかどうかで人生の満足感が違ってくる。生かされている意味を獲得できるかに関わっている。
ペックは禅に心酔していた。人生の不思議さを思い、存在の意味を探ってきた。自我は最後まで付きまとってくる。抜け出すことはできない。自我をどんなに探求しても解決はない。人生の意味は不思議に外から与えられる。自分の世界を出ていくことで、いままでにない満たしを経験させられる。
不思議な一体感を経験させられる。ナルシズム、自己愛は自分のために周りを吸収してしまう力がある。その愛は喜びをもたらさない。人を傷つけてしまう。犠牲的な愛は人との共感を呼び、喜びを増し加え、人生の満たしをもたらす。一粒の麦の不思議さである。存在の不思議さであり、愛の不思議さである。
自分を無にすることで存在の意味を獲得する。しかし禅の世界では存在の意味もないと無を徹底する。
それなりに厳しい世界である。ペックは自分を無にしてそこで出会う有の世界を体験した。自己を無にしてなお無を体験するのか、自己を無にして他者と一体となるのかで宗教の深みが違ってくる。
キリストが歩まれた道は存在の奥義の啓示である。愛の神秘の啓示である。キリストの十字架への厳しい道は生きること、生かされていることの本質を現している。だれもが直面させられる。そこを通されないと存在の意味を獲得できない。もだえ苦しみ、血の滴りを経験させられる道である。それで初めて生かされている意味をいただくことができる。キリストの受難に存在の奥義と愛の神秘を思い巡らされている。
上沼昌雄記
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