ウィークリー瞑想

上沼昌雄(神学博士)のキリスト教神学エッセー

Tuesday, May 10, 2005

男性集会の原点

ウイークリー瞑想 2005年5月10日(火)

今回日本に入ってすぐに土曜日の夕方に秋田の十文字という小さな町の教会で、13名の兄弟たちと男性集会を持ちました。

秋田でI兄と合流して伺いました。男性としての課題を原点に返って話し合い、分かち合いました。それは心のなかの闇や怒りや恐れを神に取り扱われることで、心の窓か開かれ、御霊が働きやすくなるからです。

その結果恵みが男性を通して家庭に及んでいくことを見せられてきたからです。ひとりひとりが心にかかっていることを正直に分かち合ってくださいました。

I兄のお宅に戻ってお茶をいただいているときに、I姉がおもむろに、男性集会をしても何も変わっていないようなことを言われました。一瞬ドキッとしたのですが、I兄はニコニコしながら、それは見る目がないからだと言われました。

大変ストレートな会話をされるご夫妻です。前にも同じような会話に出会ったことがあり、それを『夫たちよ、妻の話を聞こう』(62,63頁)に書かせていただきました。言葉だけを聞いたら周りが驚くような会話をされるのですが、嫌みのない清々しい温かみのある雰囲気が漂ってきます。I姉も男性集会を喜んでいてくれることが分かります。

I兄は大学の医学部の教授をされています。そこの聖研を励まし、よく食事に招きます。若い方々がご夫妻の会話を聞きながら、今までにない家庭の雰囲気を味わって育っていきます。すでに医師になって各地で活躍しています。何人かは大学で研鑽を続けています。

また私を含めて奉仕者、旅人を心からもてなしてくださいます。私の次女も昨年お邪魔いたしました。長男が今回日本に16年ぶりに帰ってくることになったのですが、親切に招いてくださいました。

忙しい中でも人との交流を大切にし、また人を育てています。

今回の妻の検診のために国際的な学術交流での知り合いのアメリカの大学の医学部の医師を紹介してくださいました。迅速で親切な検診をいただきました。

大学の教授だからといっても誰もができることではありません。いただいている立場を神からのものと受け止めていることが分かります。

また受けている恵みを自分のところに留めていないで、外に押し出していく力がいつも働いています。
それで人が生かされることを自分のことのように喜ばれています。

男性は自己実現のための人生を送ってしまいがちです。家庭を持っていながら自分の世界に閉じこもってしまいます。神が触れることさえ拒んでしまいます。それでも外側をクリスチャンらしく飾ることもできます。

しかし心の窓が開いていません。聖霊が吹き込んできません。神との親密感が育ちません。自分を通して人が生かされる喜びを感じることができません。

男性集会はただ、この殻が少しでも破られて霊性が働きやすくなることを願いとしています。それで問題が解決するわけではありません。

しかし破られたところから恵みが思いがけないかたちで届いてきます。霊の息吹を感じることができます。今回の日本での最初の奉仕の地で熱い思いをいただいています。男性集会の原点に返らされています。

上沼昌雄記


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Monday, May 02, 2005

受肉、そして交わり

ウイークリー瞑想  2005年5月2日(月)

先週の記事「20代社会人の集い」で妻が日曜の夕方に一緒にドライブをして長男の説教を聴きに行くまでに回復したことを喜んでくださったメールを何人かの方からいただきました。まだ完全に回復の道に入っているわけでないのですが、信仰と希望を持って歩んでいます。

同時に受肉のことを思い巡らしていましたというメールを、昨年『境界線』という本を翻訳されたシカゴの中村佐知さんからいただきました。

インターネット上の日記に同著者の別の本(Twelve ”Christian” Beliefs That Can Drive You Crazy--Relief from the False Assumptions)を翻訳中で、そのなかにIncarnational needsという表現があることをを紹介したということでした。

そして私の記事を受け取ったということです。Incarnational needsというのは、主であるキリストが私たちと同じ肉を取られたので、肉を持つ私たちの必要をすべてご存じであるということを、生活のすべてに適用していくとの意味合いのようです。

訳されている本のタイトルが語っているように誤った前提からの解放のために受肉を真剣に捉えることが必要です。大変興味をそそられました。翻訳の完成を楽しみにしています。彼女の日記を HYPERLINK "http://d.hatena.ne.jp/mmesachi/" http://d.hatena.ne.jp/mmesachi/上で観ることができます。明るい楽しい家庭の雰囲気が伝わってきます。

次女の泉がワシントンで仕事をしていますが、そこの日本人教会の上原先生を通してジョージタウン大学で博士論文を書いている高田麻里さんのアパートに同室させていただいています。高田さんはこのイースターに洗礼を受けられました。

私の記事をワシントン日本人教会の関わりの方に転送してくれています。そのひとりJCFNでアソシエイトとして奉仕をしてくれている森作ダンさんから、受肉についてこの2年ほど思いをめぐらしていますというメールをいただきました。

「十字架にだけ焦点をあてすぎる西洋の神学の欠陥」について質問をしてくれました。森作さんは私が理事として関わっているJCFNの大切な一角を担ってくれています。ワシントン経由でメールをいただきました。
 もう一度義樹のメッセージを思い起こしています。

イエスが罪人たちと食事をされたことが、神がキリストを遣わした意味であることを、トウザーの『神への渇望』を引用して締めくくっていました。その引用箇所を確認して、確かにトウザーがキリストの受肉のゆえに、神への渇望が、肉を持っている私たちの身近な生活への神の御手の気づきから始まることを語っていることが分かりました。

肉を持って苦しんでいる私たちのまっただ中で神の御手が不思議なかたちで届き、支えてくれるのです。キリストの受肉のゆえに神への近さが自分のうちにあることを知るのです。

受肉のテーマを挟んで交わりが広がりました。5月6日から30日まで日本で奉仕をさせていただきます。

上沼昌雄記

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