受肉、そして交わり
ウイークリー瞑想 2005年5月2日(月)
先週の記事「20代社会人の集い」で妻が日曜の夕方に一緒にドライブをして長男の説教を聴きに行くまでに回復したことを喜んでくださったメールを何人かの方からいただきました。まだ完全に回復の道に入っているわけでないのですが、信仰と希望を持って歩んでいます。
同時に受肉のことを思い巡らしていましたというメールを、昨年『境界線』という本を翻訳されたシカゴの中村佐知さんからいただきました。
インターネット上の日記に同著者の別の本(Twelve ”Christian” Beliefs That Can Drive You Crazy--Relief from the False Assumptions)を翻訳中で、そのなかにIncarnational needsという表現があることをを紹介したということでした。
そして私の記事を受け取ったということです。Incarnational needsというのは、主であるキリストが私たちと同じ肉を取られたので、肉を持つ私たちの必要をすべてご存じであるということを、生活のすべてに適用していくとの意味合いのようです。
訳されている本のタイトルが語っているように誤った前提からの解放のために受肉を真剣に捉えることが必要です。大変興味をそそられました。翻訳の完成を楽しみにしています。彼女の日記を HYPERLINK "http://d.hatena.ne.jp/mmesachi/" http://d.hatena.ne.jp/mmesachi/上で観ることができます。明るい楽しい家庭の雰囲気が伝わってきます。
次女の泉がワシントンで仕事をしていますが、そこの日本人教会の上原先生を通してジョージタウン大学で博士論文を書いている高田麻里さんのアパートに同室させていただいています。高田さんはこのイースターに洗礼を受けられました。
私の記事をワシントン日本人教会の関わりの方に転送してくれています。そのひとりJCFNでアソシエイトとして奉仕をしてくれている森作ダンさんから、受肉についてこの2年ほど思いをめぐらしていますというメールをいただきました。
「十字架にだけ焦点をあてすぎる西洋の神学の欠陥」について質問をしてくれました。森作さんは私が理事として関わっているJCFNの大切な一角を担ってくれています。ワシントン経由でメールをいただきました。
もう一度義樹のメッセージを思い起こしています。
イエスが罪人たちと食事をされたことが、神がキリストを遣わした意味であることを、トウザーの『神への渇望』を引用して締めくくっていました。その引用箇所を確認して、確かにトウザーがキリストの受肉のゆえに、神への渇望が、肉を持っている私たちの身近な生活への神の御手の気づきから始まることを語っていることが分かりました。
肉を持って苦しんでいる私たちのまっただ中で神の御手が不思議なかたちで届き、支えてくれるのです。キリストの受肉のゆえに神への近さが自分のうちにあることを知るのです。
受肉のテーマを挟んで交わりが広がりました。5月6日から30日まで日本で奉仕をさせていただきます。
上沼昌雄記
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