「福音主義の非寛容さ?」
神学モノローグ「福音主義の非寛容さ?」 2005年1月20日(木)
暮れにある団体から届いた献金のお願いの文章に「イラク戦争以来、キリスト教国とも呼ばれているアメリカの残酷さや大統領の頑固な自己正当化」という表現があった。書かれた方の個人のニュースレターであればなにも問題はないが、公の機関の表現としては不適切に思えた。その旨を責任者にお伝えした。
この文章を読んで小説家の村上春樹が言っていることを思い出した。「僕が今のところいちばん耐えられないのは、社会が含んでいる非寛容さです。たとえばオウム真理教が含んでいる非寛容さ、そしてそれに対峙して一般社会が含んでいる非寛容さ、アルカイダの非寛容さ、ブッシュの非寛容さ。僕はそういう非寛容さをひっくり返すような物語を書きたいと思っています」(雑誌『少年カフカ』630頁)と言っている。納得できる。
彼の作品には戦争のことが避けられないかたちで出てくる。社会が含んでいる非寛容さをひっくり返すユーモアと優しさがある。強い優しさである。
アメリカに限られた期間であるがそれなりに生活していて、今のアメリカの政治的な方向を支えている福音的な教会やクリスチャンの信仰的なといえるのか、教理的なといったらよいのか、ともかく精神的な保守主義を身近に感じてきた。大統領は彼らの精神の体現者である。昨年11月の選挙の動向を見ながらより強く感じた。アメリカの保守主義は福音派の保守主義によって支えられている。
福音的な教会とクリスチャンは親切で、寛容で、惜しみなく助けてくれる。ミニストリーもそのような人たちのよって支えられている。同時に自分たちの信じていることが一番正しいという思いから来る排他性も持っている。非寛容さという印象を与える。日本の福音派も排他性、非寛容さを持っている。正統的な信仰が持っている寛容さと非寛容さである。
先週届いた「USニュース」誌でジェームズ・ドブソンのことが特集されていた。政治的なパワーを持ってきているというものである。たとえば中絶を容認している議員に投票しないようにその州の彼の働きの支援者に呼びかけることをしてきたと言う。また最高裁の判事の入れ替えがあるときには中絶法を覆すことのできるよう動いていると言う。家庭、子どもを対象にした彼のミニストリーとしては当然の方向とも言える。しかしジェームズ・ドブソンが持っている草の根的なネットワークを政治家が恐れていると言う。またそれを使おうとしていると言う。
ミニストリーでは政治的な発言は避けている。これからもその方針を保ちたい。ただ政治と信仰の結びつきはアメリカの社会では避けられないかたちで出てきているので、神学の課題としてその関わりを目を開いて見ていきたい。妻ともよく話す。この記事も読んでもらっている。今日は大統領の2期目の就任式である。
上沼昌雄記
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