「続 −教会の霊性」
神学モノローグ「続 −教会の霊性」2005年1月17日(月)
クリスチャニティー・ツディの記事 The Church: Why Bother? のタイトルの訳についてある方からご指摘をいただいた。確かに「教会、どうでもよい」という教会に来ない人たちの気持ちを表現したタイトルである。教会 に行かなくてもどうなるわけでもない、行くだけの意味があるのか、自分には関係がないという思いを表現している。ご指摘を感謝している。
教会に対して「どうでもよい」と思っている人を牧師は非難するだけで終わっている。そう思っている多くの人たちが牧師の心を読みとっている。自分の功績を挙げることに腐心している心、自分の聖書理解が一番正しいと思っている心、自分の教えに従わないから信仰が成長しないのだという思い、教会のプログラムだけを考えて人のことを考えていない心、牧師の心の闇の世界、怒りの心、恐れの心、ものの見事に見抜いている。
このような人たちは牧師を非難しているのではなくて、牧師を観ていて神との親しさに自分が導かれないという絶望感に駆られている。教会に行っても行かなくても変わらないと思ってしまう。教会の移動が楽にできるアメリカで、いくつかの教会を巡って同じような思いになって、結局「どうでもよい」と思ってしまう。
しかし同時に、人を惹き付けている教会もある。しかも短期間ではなく、長い間にわたって人が集まり、その輪が拡大している教会もある。そこには不思議に神との近さがある。牧師の説教のうまさでもなく、カリスマ的な性格でもなく、聖書釈義の正確さでもなく、プログラムの運営のスムーズさでもない。教会が神との近さを大切にしていることで、集う人たちが自分が大切にされていることを感じ取っている。牧師の心が神にストレートに向いていることが分かって安心できる。
日本で不思議な導きで交わりをいただいている教会がある。その教会のことを思うと、その教会の牧師の祈りの姿をまず第一に思い起こす。寒い朝に牧師室に入って背を丸くして祈っている姿である。その姿を見たわけではないが想像することができる。厳しい霊的な戦いを持っている。この牧師が「祈っています」とメールで言ってくださると、その通り祈ってくださっていることが伝わってくる。そして遠慮なしに祈りをお願いすることができる。
また寒い北国で雨の日も吹雪の日も早朝祈祷会を続けている教会がある。余分なことはなく30分だけ聖書と賛美と祈りの時を持って終わる。寒い朝に教会に集ってくる人たちの姿、終わったらさっと帰ってしまう牧師、だらだらしたところがなく、しかも暖かみにある祈りの時である。その地に伺ったときには参加できるのを楽しみにしている。
さらに30年以上にわたって月のある日を定めて祈っていてくださる早天祈祷会がある。その人たちの祈りによってここまで支えられてきた。
「教会、どうでもよい」と思っている人たちの多くが、実際には心からの交わりを教会に求めている。と同時に同じ失望感を味わいたくないと思っている。謙虚に受け止める以外にない。
上沼昌雄記
【SBJCFに戻る】
2004年までのアーカイブを読む

<< Home