「教会の霊性」
神学モノローグ「教会の霊性」 2005年1月14日(金)
クリスチャニティー・ツディの最新号(January 2005)に「教会、なぜ妨げなのか(The Church: Why Bother?)」という記事が載っている。ボーン・アゲインのクリスチャンと言われる人達のうち、12人に一人ぐらいがこの6ヶ月間のうち、イースターやクリスマスを除いて、教会に行っていないという統計から始まっている。キリストに対する信仰を告白して、その大切さを認めている人たちで日常的に教会に関わりを持たない人を入れるとその倍になると言う。
限られたアメリカでの生活を振り返ってみても、そんなに驚くべき数字でもないように思う。食前のお祈りをして交わっている中で、以前は教会に行っていたが、今は行っていないということを自然に話してくれる。それで信仰がなくなるわけでないと納得している。むしろ教会に行っても特別に恵みを受けることがないという現実を通ってきている。そしてこちらも自分たちの教会に是非来てくださいという確信がないことが分かっている。
私たちは家族でカリフォルニアの田舎の教会に15年以上通っている。その間5人の牧師が入れ替わっている。教会の帰りに遠回りをして嫌な思いを沈めたことが何度かある。この記事にも書かれているが、多くの場合に牧師は教会員を非難し、ただ叱咤激励するメッセージを繰り返している。信者がますます教会から離れてしまう。教会のことで傷を受けている。記事の中に牧師が引退するのを20年間待ち続けた信者の話が載っている。冗談とも本気ともとれる話である。
教会との関わりを持たないクリスチャンのことが雑誌の記事になるほどの現象が起きている。ただその状況を納得できる。記事にも書かれているが、教会で傷つけられたという経験は結構多くの人が持っている。教会はもう結構だと思っている。教会のことで二度と傷つけられたくないと思っている。
悲しいことである。
しかしこのような現実がありながら、教会なしには信仰が成長しない。この記事のポイントでもある。交わりを通して信仰が励まされることがない。自分よがりの信仰になってしまう。他者に対する思いやりがなくなってしまう。愛し、愛されることでの心の温まりがない。神との親しい交わりが深まることがない。
教会はどのようなことがあってもキリストの体である。キリストの信仰と御霊の愛で生かされている。
この世のもので得られない神の恵みによって成り立っている。実際には信者は教会で心からの礼拝、真実な交わり、心の触れ合いを求めている。その願いが叶えられている教会のことも知っている。礼拝で信者が満たされている。霊的な深みと広がりを持って教会が成長している。霊的な満たしが家族や友人を包み込んでいる。誘われた人たちも礼拝に出席しているだけでその教会の霊的な状態を感じ取っている。日本でもアメリカでも見ることができる。
記事には明確に書いていないが、教会の霊性は牧師の霊性に全面的に拠っていると言って過言でない。
信徒はメッセージを聞きながら、牧師の心の世界を確実に感じ取っている。説教でもっともなことを言っていても、その背後での神との隠された交わりを感じ取っている。信徒の教会との距離感は、牧師の神との距離感の現れである。残念ながら非難されるのは信徒の方になってしまう。むしろ牧師の責任である。ミニストリーをしていても同じことを感じさせられている。厳しいことである。自分の霊的な研鑽に関しては決して怠惰になってはいけないと思わされている。
上沼昌雄記
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