ウィークリー瞑想

上沼昌雄(神学博士)のキリスト教神学エッセー

Wednesday, April 06, 2005

老婦人の涙

ウイークリー瞑想     2005年4月5日(火)

牧師のエゴで棕櫚の聖日の礼拝が中止さるという事態が起こりました。私たちが家族で出席し、ミニストリーが始まった北カルフォルニアの山の小さな教会のことです。牧師に教会を去っていただく嘆願書もだされました。一昨日の午後に話し合いが持たれました。

90歳近くになられる老婦人が、礼拝が途中で中止というアナウンスで礼拝後のために用意した食事を泣きながら家に持って帰ったと、涙を浮かべて、静かに、誰かを非難しているのではなくて、正直にご自分の心を語られました。話し合いも一方的に押しまくられた感じて終わりました。

年輩のご婦人たちが目に涙を浮かべながら去って行かれました。年輩の方々が牧師に無視されているように感じたのが、昨年役員をしていたときの私の思いでした。正直に伝えました。そして無視されました。

話し合いで出てきたこと、語られた人たちのことが昨日一日頭のなかをあぶくのように出てきて消えていきました。最後に老婦人たちの涙が、あぶくが出てきて見苦しい自分の心に一筋の光を持って浮かんできました。悲しみの涙なのですが、栄光を感じさせる輝きを持っています。

私の心はその涙に吸い付けられ、見つめました。何かを示しているように思いました。床についてから気づきました。イエスが流された涙ではないのだろうか。もう一度起きあがってコンピュータで検索しました。最近いのちのことば社からいただいたバイリンガル聖書で確認しまた。「イエスは涙を流された。」モJesus weptモ (ヨハネ11:35)

老婦人たちの涙は一様に深い悲しみをたたえています。それでも自分たちのことが分かってもらえないという悲しみではないのです。今までの人生で何度も流された涙が地に落ちて、純化され、地の深いところから静かにほとばしり出てきたような涙です。もう充分人生の悲しみを経験してきて、最後に教会で憩うことができると思っていて、さらに流さなければならない涙です。

怒りの涙ではないのです。長い長い人生でただ涙を流すことで絶えてきた、しかしなお流さなければならない涙です。悲しみの人生からなおほとばしる涙です。若い私たちの涙には憤りや悔しさがありますが、そのような混じりけが一切取りのけられて清められた涙です。

90歳近い老婦人の家族はこの山の小さな町に木材の伐採のために数十年前に移り住んできました。黒人の家族です。大変な苦しみを通されました。涙と苦しみを通り越して愛に満ちています。私たちも16年前にこの町に日本から移り住みました。

苦しみのなかでこの家族の愛で励まされてきました。この老婦人の涙を見て、人生の終わりに至るまで流さなければならない涙があっても、深い深い悲しみをたたえていながら、そこには清められた輝きが備わってくることを分かりました。「悲しみの人」(イザヤ53:3)であるイエスが一緒に流された涙なのでしょう。

年輩の方々は現実的に自分の葬儀をだれがしてくれるのだろうかという心配があります。どこにも行けないのです。ただ「毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように」(イザヤ53:7)口を開かないで静かにしています。イエスとともにただ黙って涙を流されています。その涙に神の栄光が反映して輝いています。

上沼昌雄記


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