死ぬことを生きる
ウイークリー瞑想 2005年3月28日(月)
受難週とイースターをどのような思いで過ごされたでしょうか。今回どのようなわけか分からないのですが、キリストの受難と復活の間の二日間といったらよいのか、一日半といったらよいのか、この期間をどのように過ごしたらよいのか迷いました。
福音書で受難と復活のこと思い巡らすことができます。そのための集会もあります。しかしキリストが葬られていた間の記事は余りありません。女たちが埋葬の準備をして安息日が終わるのを待っていたこと、パリサイ人がピラトに願って番兵を出して封印をし、墓の番をさせたことだけです。
現実的に受難日あとはイースターの集会や行事のために忙しくしてしまいます。牧師はイースターのメッセージに心がとらわれてしまいます。女性たちはイースターの食事の準備のために忙しくしてしまいます。私たちも長男の誕生日がこの期間に当たっていたこともあって、今滞在しているロス郊外で家族親戚が集まることになっていました。そのための準備もありました。あれこれしながら、キリストが葬られていた間のこの時をどのように過ごすことがふさわしいのかという問いが出てきました。
イースターの礼拝、家族の団らんの時が終わっても不思議にこの問いが心に残っています。イースターでよみがえりを確認しても、新しい自分になっているわけではなりません。古い自分を奮い立たせているだけです。自分のなかの思いわずらい、心配はなくなりません。相変わらずの自分に落胆します。私たちの教会では牧師のエゴで礼拝が中止されるという事態まで起こっています。聖書も信仰も自己実現のために用いられてしまう現実を見せられています。信じているので救われている事実は変わらないのですが、信仰も教会も自分のためのものと思ってしまう現実も変わらないでいます。
キリストが十字架からおろされて納められた場所を女たちが「よく見ていた」(マルコ15:46)とあえて記され、番兵まで出されて墓が封印されたことが記されているのは、死んで葬られて事実を確認するためでした。神の御子であるイエスが死んだのです。安息日の間葬られていたのです。だれもその死に手を出すことはできませんでした。死は後戻りできない現実です。だれも乗り越えることができない現実です。
キリスト信仰の難しさは、この葬りに共にあずかることのようです。自分に死ぬことで、キリストが生きるためです。それは同時に自分が一番生きるためでもあります。罪で死んでいる自分が死んで、本来の自分が生きるためです。最も自分らしく生きるためです。神が自分を通して働くために自分が死ぬことです。死ぬことで生きるためです。「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストともに葬られたのです」(ロマ6:4)と明言できたパウロは、死ぬことで生きる道を知ったからです。
しかしなお難しいのは、キリストとともに死に葬られることをプログラムのようには修得できないことです。死ぬこと葬られることはまったく逆のことです。自分に何かを積み重ねることではないのです。手放していくことです。手放すことで恵みが届いてくることを経験ことです。
また何をどのように手放すのかという手引書もありません。ただ分かることは、手放さなければ生きていけない現実に直面していることを素直に認めることです。そのような状況や場面に神によって導かれていることを受け止めることです。そんな自分がキリストと共に十字架で死に、葬られている姿を思い描くことです。自分の手の届かない、しかし誰かがしっかりと見届けていてくれる自分自身の埋葬式を心のなかで持つことです。
上沼昌雄記
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