ウィークリー瞑想

上沼昌雄(神学博士)のキリスト教神学エッセー

Friday, June 09, 2006

存在の悪性

 一年前の日本で、エマニュエル・レヴィナスの『存在の彼方』 (1974年)を購入して
読んだ。彼の存在の問いの視点に関心を持った。というのは、彼はリトアニア出身
のユダヤ人で、1927年に出たハイデッガーの『存在と時間』に感激して、存在の問
いを問い始めた が、ナチスに荷担したハイデッガーとは、当然であるが問いの設
定と方向付けが決定的に異なっていたからである。彼はフランスに帰化していたた
めに、フランス軍の兵士としてドイツの捕虜になり、アウシュビッツの大量虐殺を解
放されてから初めて知ることになった。同時に彼の家族と親戚のほとんどが殺戮さ
れたことを知ることになった。

 今回の日本での奉仕の初めに彼の『実存から実存者へ』(1947年)を手に入れ、
読みながら旅をした。この本は彼が戦後解放されてから出版されたものである。
存在することに含まれる悪を見据えている。存在は存在することで悪をはらんでし
まう恐怖、おぞましさに戦慄している。レヴィナスは言う。「存在はみずからの限界
と無以外に悪性を抱えてはいないだろうか。存在の積極性そのもののうちに何か
しら根本的な禍悪があるのではないだろうか。」

 600万の同胞が犠牲になったおぞましい出来事を目の前にして、ハイデッガーの
存在への問いの真摯さを認めていながら、存在の悪性を止めることができなかっ
たヨーロッパのキリスト教に対しての根元的な問いかけである。罪を指摘して、
キリストによる贖いを説いて、神に立ち返ることを伝えるメッセージだけでは解決
されない、人間が存在することで悪をはらんでしまう存在の悪魔性をレヴィナスは
観ている。

 ハイデッガーは存在の不安を説いている。無に向かう存在の不安である。
レヴィナスは無を強要される恐怖を知っている。ハイデッガーはを強要する立場
にあった。この違いが同じ存在の問いでありながら、設定が初めから異なっている。
ハイデッガーの存在はあくまで中性である。
レヴィナスの存在は初めから悪性である。アウシュビッツが浮かび上がらせた存在
の悪性である。

 エリー・ヴィーゼルは15歳の時アウシュビッツに連れて行かれて最初の日に多く
の同胞が焼かれる煙を見て、存在の「夜」を体験する。「この夜のことを、私の人生
をば七重に閂(かんぬき)をかけた長い一夜に変えてしまった。収容所でのこの最
初の夜のことを決して私は忘れないであろう。この煙のことを、決して私は忘れない
であろう。
私の信仰を永久に焼き尽くしてしまったこれらの焔のことを、決して私は忘れないで
あろう。この夜の静けさのことを、決して私は忘れないであろう。」

 レヴィナスはしかし、存在の彼方に善を信じていた。他者への責任を説いている。
20世紀の終わりにいたって彼の存在の問いの方向性が評価されてきた。
受けた経験の深さが存在の問いの深さを引き出している。存在自体が持っている
悪性を見据えている。そしてなおその彼方に善の世界を信じている。
そのために他者への責任を問う。悪に引き込まれてしまう存在の惰性からの超越
を説く。

 他者への責任は「身代わり」である。存在は身代わりであることで存在の彼方へ
と超越できる。レヴィナスは言う。「他人に対する一者の責任、それは一者が他人
の身代わりになることであり、この身代わりによって、他人の代わりに人質になる
という一者の条件が描かれるのではなかろうか。」

 「身代わり」とは彼にとっては、同胞の身代わりでいま自分が存在していることの
責任でもある。語ることでその責任を果たそうとしている。反戦を唱えているわけで
ない。家族が殺戮されたことを訴えているわけでない。存在の隠蔽性を打ち破る
ために、存在の悪性を打ち破るために、存在の彼方への飛躍を信じて、語られる
ことより語ることを信じている。責任を持って他者のために生きることを語っている。
道徳的にではなくて、存在論的に語っている。

 ハイデッガーは存在の神秘さに惹かれてヘルダーリンの詩の解明に向かって
いった。存在の神秘主義になってしまった。レヴィナスは強靱に存在の回復を願っ
ている。アウシュビッツでの存在の悪性と暴力性をみせられても、存在の彼方に
善を信じて語っている。ハイデッガーでは抜け出すことができな存在の謎を、存在
の超越性を信じて語っている。いまだに混迷しているヨーロッパの思想界とキリスト
教会に存在の悪性と超越性を問いかけている。

Tuesday, June 06, 2006

大学紛争と戦争の傷跡

 2月にシンガポール・クアラルンプールでの奉仕、5月に日本での奉仕、
そしてこの6月初めのポートランドの日本人教会の聖書塾と教会での奉仕で、
自分の過去を振り返る、教会の教理の歴史を振り返る、自分の歩んだ「死の
陰の谷」を振り返ることをしました。そして60年代の大学紛争と、それ以
前の戦争のことが避けられないテーマとして出てきました。不思議なことで
すが、当然の現実でもあります。
 シンガポールで自分自身の60年代の体験として大学紛争のことを話した。
同年輩の方がその方にとってはそれはまさに大学「闘争」であったと言われ
ました。安田講堂での攻防を体験してこられたのです。短いやり取りでした
が、60年代に直面したことが心に深く残っていることを知らされました。
当然とは言え、新たな火種を心にいただきました。
 5月にある教会での奉仕のあとに同年輩の方がお茶に招いてくれました。
多分私がシンガポールでの「大学紛争」と「大学闘争」のことを話 したのか
も知れません。その方は真顔でご自分は単に参加していただけではなくて、
その中に人を巻き込むことをしていたこと、しかし直前になって敵前逃亡を
したことを話してくれました。さらにそれを隠して企業に就職したこと、仕事
の関係で同年輩の人に会うと、何らかのかたち で大学闘争に関わってき
たことを互いに感じていても、決してそのことを話すことができなかったと
言われました。ただ事でない雰囲気でした。
 しばらくしてメールをくれました。「おかげで、この歳になってやっ と過去
と向き合い、それを解毒?して行く道がみえたと思います。」
毒を抱えて生きてきたほどのことだったのです。話してくださったことで過
去の暗部に光りが差し込んできました。
 この方との会話で、村上春樹が大学紛争と戦争のことが必ずと言っていいほ
ど取り上げられていることの意味が分かったような気がしまし た。
『海辺のカフカ』で大学紛争に巻き込まれて意味なく命を落とした青年のことが
書かれています。物語の大変な伏線になっています。そして戦争のことも出
てきます。村上春樹もこの方も私も直接には戦争に関わっていたわけではな
いのですが、日本人として生きているうえで避け られないテーマとして重
くのしかかっています。
 
 ポートランドでの男性集会では「母の日」と「父の日」にちなんで自分の
母と父を語ることをしました。ひとりの方が終戦の農地解放で土地 を失い、
その後両親が大変な苦労をしたことを語ってくれました。その後アメリカに
渡って努力をして今まで歩んできたことをしみじみと話してくれました。
戦争が人の人生を大きく変えてしまったのです。それで また神に出会うこと
になったのです。
 聖書塾での「教理史」と「苦しみの神学」のクラスでは明らかに戦争で人生
を大きく変えられている方々がいます。そのためにアメリカに来ている人た
ちです。その方々にとって戦争がどのような意味を持っているのか、つらいこ
とだと思いますが語っていただきたいと思いました。 もう忘れていたこと
かも知れません。忘れたいと思っていたことかも知れません。しかし語るこ
とで少しでも自分を受け止められるのではない かと思いました。
 「教理史」では20世紀の初めの2つの世界大戦がどのようにものの見方、
人間観に影響しているのかしばらく時間をかけて考えました。韓国の年輩の
女性で日本語を上手に話す方がいます。家族が満州に韓国の政府の高官とし
て勤務しているときに日本語を覚えたというのです。それに続く戦争がこの
方の人生に重くのしかかっていきます。不思議にいまアメリカの日本人教会
で主にある家族としての交わりをいただいてい ます。
 「苦しみの神学」では戦争のことが直接、間接に関わってアメリカに来て
いる方々が中心のクラスです。その苦労、苦しみは想像を超えています。
「私の死の陰の谷」というテーマで分かち合う時を持ちました。 どのよ
うな苦しみを通られたのか知りたいと願いました。語ってくださ ることで
少しでも苦しみを自分の人生と受け止められるのではないかと 思いました。

 ある方の通られたことはまさに想像を超えるものでした。終戦の後の買い
出しで少女として耐え難い屈辱を受けました。死ぬことを何度も願ったと
言います。余すことなしに語ってくださいました。聞いているものも涙を禁
じ得ませんでした。語ることで自由にされたと言われます。暗い過去の思い
出から解放されました。キリストとの直接的な出会 いを経験されました。
 聞いている人たちもそれぞれ大変な苦しみを通られました。互いの死の陰
の谷を聞くことで癒しを経験します。誰もがその生涯で充分な苦しみを経験
しています。戦争は私たちの心に深い傷を残しています。人生を大きく変え
てしまいました。取り返すことはできません。語ることで少しでも自分の
人生の一部と受け止めることができます。聞くことで苦 しみが昇華されます。
苦しみに対して敏感になります。苦しみの深さが人生の襞のように刻まれて
います。生きることの重みが増してきます。