神の臨在の習練_その4
ウィークリー瞑想
神の臨在の「習練」は、心を神に向けていくこと、神の臨在を思い起こすことです。そのために「立ち止まり、退くこと」を手始めとして勧めています。そして40年の習練のあとに達した心境をブラザー・ローレンスが述べているところがあります。「優しい、愛に満ちた神の気づき gentle and loving awareness of God」と言っています。神が優しく、愛を込めて見つめていてくださることに自分の心が気づくのです。前回紹介した「優しく、へりくだって、愛を込めて」神の前で自分の心を神の前に差し出してことに呼応しています。
「気づき」は、信じて待ち望んでいた神の臨在が自分の心の届いてきたときのことです。霊性における認識のことです。へりくだって神を待ち望んでいる心がほんの微かに感じ取ることのでることです。それはか細い声であり、心のどこかでわずかに感じることのできることです。ブラザー・ローレンスはそのときには大声で「神を心から愛します」というようなものではなくて、「どうしてか分かりませんが」と言って神の前にへりくだっていることだと述べています。
神の臨在の気づきは、どうしてなのか分からないのですが、はっと気づかされることです。論理の道筋も、習練の結果も、意志の強さも関係なしに、不思議に向こうから届いてきて自分の心が納得するのです。そのときを自分でコントロールすることもできません。またどのように届いてくるのかも想像もできません。心をこのように定めたら神の臨在に気づくというのではないのです。心を空にして待つだけです。しかし確実に届いてきます。神は真実です。
同時に神の臨在に気づかされるときは、あるいは神が心に届いてくださるときは、自分の心が一番必要としているかたちで、自分の心にかなうかたちでなされます。心の深くで納得できます。心の底で「どうしてなのか分からないのですが、そのまま受け入れます」と言えます。気づかされたことが心の深くにどっと収まるのです。自分でも気がつかなかった心の渇望が満たされます。まさに「優しい、愛に満ちた神の気づき」です。ニコデモの心を想像します。
ブラザー・ローレンスはこの時には、あたかもこの世には自分と神しかいないような思いになると述べています。祭司のように密室を持っていたわけではありません。厨房で毎日のように忙しく働いていました。心が神との密室になったのです。日常生活の中でそのような思いなれたらばと願います。仕事のこと、人の言葉、思いわずらいや心配でとらわれていた心が神の愛に包まれて、どこかに消えてしまって、神の臨在に満たされるのです。いっさいのことを神がよくしてくださると思えます。神とともにいることが楽しくなります。
それは没我状態、恍惚状態ではありません。ブラーザー・ローレンスが証明しています。優しい、愛に満ちた神の気づきで育まれて、彼の心は一緒に働いている人たちに向けられています。『神の臨在の習練』はその人たちとの手紙のやり取り、会話、そして彼の葬儀の時の賛辞のことばで成り立っています。妻がイラクに行った息子へのクリスマスのプレゼントに送ったのが契機になって思い巡らしました。
上沼昌雄記
【SBJCFに戻る】
2004年までのアーカイブを読む