ウィークリー瞑想

上沼昌雄(神学博士)のキリスト教神学エッセー

Friday, January 28, 2005

神の臨在の習練_その4

ウィークリー瞑想


神の臨在の「習練」は、心を神に向けていくこと、神の臨在を思い起こすことです。そのために「立ち止まり、退くこと」を手始めとして勧めています。そして40年の習練のあとに達した心境をブラザー・ローレンスが述べているところがあります。「優しい、愛に満ちた神の気づき gentle and loving awareness of God」と言っています。神が優しく、愛を込めて見つめていてくださることに自分の心が気づくのです。前回紹介した「優しく、へりくだって、愛を込めて」神の前で自分の心を神の前に差し出してことに呼応しています。

「気づき」は、信じて待ち望んでいた神の臨在が自分の心の届いてきたときのことです。霊性における認識のことです。へりくだって神を待ち望んでいる心がほんの微かに感じ取ることのでることです。それはか細い声であり、心のどこかでわずかに感じることのできることです。ブラザー・ローレンスはそのときには大声で「神を心から愛します」というようなものではなくて、「どうしてか分かりませんが」と言って神の前にへりくだっていることだと述べています。

神の臨在の気づきは、どうしてなのか分からないのですが、はっと気づかされることです。論理の道筋も、習練の結果も、意志の強さも関係なしに、不思議に向こうから届いてきて自分の心が納得するのです。そのときを自分でコントロールすることもできません。またどのように届いてくるのかも想像もできません。心をこのように定めたら神の臨在に気づくというのではないのです。心を空にして待つだけです。しかし確実に届いてきます。神は真実です。

同時に神の臨在に気づかされるときは、あるいは神が心に届いてくださるときは、自分の心が一番必要としているかたちで、自分の心にかなうかたちでなされます。心の深くで納得できます。心の底で「どうしてなのか分からないのですが、そのまま受け入れます」と言えます。気づかされたことが心の深くにどっと収まるのです。自分でも気がつかなかった心の渇望が満たされます。まさに「優しい、愛に満ちた神の気づき」です。ニコデモの心を想像します。

ブラザー・ローレンスはこの時には、あたかもこの世には自分と神しかいないような思いになると述べています。祭司のように密室を持っていたわけではありません。厨房で毎日のように忙しく働いていました。心が神との密室になったのです。日常生活の中でそのような思いなれたらばと願います。仕事のこと、人の言葉、思いわずらいや心配でとらわれていた心が神の愛に包まれて、どこかに消えてしまって、神の臨在に満たされるのです。いっさいのことを神がよくしてくださると思えます。神とともにいることが楽しくなります。

それは没我状態、恍惚状態ではありません。ブラーザー・ローレンスが証明しています。優しい、愛に満ちた神の気づきで育まれて、彼の心は一緒に働いている人たちに向けられています。『神の臨在の習練』はその人たちとの手紙のやり取り、会話、そして彼の葬儀の時の賛辞のことばで成り立っています。妻がイラクに行った息子へのクリスマスのプレゼントに送ったのが契機になって思い巡らしました。

上沼昌雄記



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Friday, January 21, 2005

「福音主義の非寛容さ?」 

神学モノローグ「福音主義の非寛容さ?」  2005年1月20日(木)

暮れにある団体から届いた献金のお願いの文章に「イラク戦争以来、キリスト教国とも呼ばれているアメリカの残酷さや大統領の頑固な自己正当化」という表現があった。書かれた方の個人のニュースレターであればなにも問題はないが、公の機関の表現としては不適切に思えた。その旨を責任者にお伝えした。

この文章を読んで小説家の村上春樹が言っていることを思い出した。「僕が今のところいちばん耐えられないのは、社会が含んでいる非寛容さです。たとえばオウム真理教が含んでいる非寛容さ、そしてそれに対峙して一般社会が含んでいる非寛容さ、アルカイダの非寛容さ、ブッシュの非寛容さ。僕はそういう非寛容さをひっくり返すような物語を書きたいと思っています」(雑誌『少年カフカ』630頁)と言っている。納得できる。

彼の作品には戦争のことが避けられないかたちで出てくる。社会が含んでいる非寛容さをひっくり返すユーモアと優しさがある。強い優しさである。

アメリカに限られた期間であるがそれなりに生活していて、今のアメリカの政治的な方向を支えている福音的な教会やクリスチャンの信仰的なといえるのか、教理的なといったらよいのか、ともかく精神的な保守主義を身近に感じてきた。大統領は彼らの精神の体現者である。昨年11月の選挙の動向を見ながらより強く感じた。アメリカの保守主義は福音派の保守主義によって支えられている。

福音的な教会とクリスチャンは親切で、寛容で、惜しみなく助けてくれる。ミニストリーもそのような人たちのよって支えられている。同時に自分たちの信じていることが一番正しいという思いから来る排他性も持っている。非寛容さという印象を与える。日本の福音派も排他性、非寛容さを持っている。正統的な信仰が持っている寛容さと非寛容さである。

先週届いた「USニュース」誌でジェームズ・ドブソンのことが特集されていた。政治的なパワーを持ってきているというものである。たとえば中絶を容認している議員に投票しないようにその州の彼の働きの支援者に呼びかけることをしてきたと言う。また最高裁の判事の入れ替えがあるときには中絶法を覆すことのできるよう動いていると言う。家庭、子どもを対象にした彼のミニストリーとしては当然の方向とも言える。しかしジェームズ・ドブソンが持っている草の根的なネットワークを政治家が恐れていると言う。またそれを使おうとしていると言う。

ミニストリーでは政治的な発言は避けている。これからもその方針を保ちたい。ただ政治と信仰の結びつきはアメリカの社会では避けられないかたちで出てきているので、神学の課題としてその関わりを目を開いて見ていきたい。妻ともよく話す。この記事も読んでもらっている。今日は大統領の2期目の就任式である。

上沼昌雄記

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「続 −教会の霊性」

神学モノローグ「続 −教会の霊性」2005年1月17日(月)

クリスチャニティー・ツディの記事 The Church: Why Bother? のタイトルの訳についてある方からご指摘をいただいた。確かに「教会、どうでもよい」という教会に来ない人たちの気持ちを表現したタイトルである。教会 に行かなくてもどうなるわけでもない、行くだけの意味があるのか、自分には関係がないという思いを表現している。ご指摘を感謝している。

教会に対して「どうでもよい」と思っている人を牧師は非難するだけで終わっている。そう思っている多くの人たちが牧師の心を読みとっている。自分の功績を挙げることに腐心している心、自分の聖書理解が一番正しいと思っている心、自分の教えに従わないから信仰が成長しないのだという思い、教会のプログラムだけを考えて人のことを考えていない心、牧師の心の闇の世界、怒りの心、恐れの心、ものの見事に見抜いている。

このような人たちは牧師を非難しているのではなくて、牧師を観ていて神との親しさに自分が導かれないという絶望感に駆られている。教会に行っても行かなくても変わらないと思ってしまう。教会の移動が楽にできるアメリカで、いくつかの教会を巡って同じような思いになって、結局「どうでもよい」と思ってしまう。

しかし同時に、人を惹き付けている教会もある。しかも短期間ではなく、長い間にわたって人が集まり、その輪が拡大している教会もある。そこには不思議に神との近さがある。牧師の説教のうまさでもなく、カリスマ的な性格でもなく、聖書釈義の正確さでもなく、プログラムの運営のスムーズさでもない。教会が神との近さを大切にしていることで、集う人たちが自分が大切にされていることを感じ取っている。牧師の心が神にストレートに向いていることが分かって安心できる。

日本で不思議な導きで交わりをいただいている教会がある。その教会のことを思うと、その教会の牧師の祈りの姿をまず第一に思い起こす。寒い朝に牧師室に入って背を丸くして祈っている姿である。その姿を見たわけではないが想像することができる。厳しい霊的な戦いを持っている。この牧師が「祈っています」とメールで言ってくださると、その通り祈ってくださっていることが伝わってくる。そして遠慮なしに祈りをお願いすることができる。

また寒い北国で雨の日も吹雪の日も早朝祈祷会を続けている教会がある。余分なことはなく30分だけ聖書と賛美と祈りの時を持って終わる。寒い朝に教会に集ってくる人たちの姿、終わったらさっと帰ってしまう牧師、だらだらしたところがなく、しかも暖かみにある祈りの時である。その地に伺ったときには参加できるのを楽しみにしている。

さらに30年以上にわたって月のある日を定めて祈っていてくださる早天祈祷会がある。その人たちの祈りによってここまで支えられてきた。

「教会、どうでもよい」と思っている人たちの多くが、実際には心からの交わりを教会に求めている。と同時に同じ失望感を味わいたくないと思っている。謙虚に受け止める以外にない。

上沼昌雄記


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「教会の霊性」

神学モノローグ「教会の霊性」 2005年1月14日(金)

クリスチャニティー・ツディの最新号(January 2005)に「教会、なぜ妨げなのか(The Church: Why Bother?)」という記事が載っている。ボーン・アゲインのクリスチャンと言われる人達のうち、12人に一人ぐらいがこの6ヶ月間のうち、イースターやクリスマスを除いて、教会に行っていないという統計から始まっている。キリストに対する信仰を告白して、その大切さを認めている人たちで日常的に教会に関わりを持たない人を入れるとその倍になると言う。

限られたアメリカでの生活を振り返ってみても、そんなに驚くべき数字でもないように思う。食前のお祈りをして交わっている中で、以前は教会に行っていたが、今は行っていないということを自然に話してくれる。それで信仰がなくなるわけでないと納得している。むしろ教会に行っても特別に恵みを受けることがないという現実を通ってきている。そしてこちらも自分たちの教会に是非来てくださいという確信がないことが分かっている。

私たちは家族でカリフォルニアの田舎の教会に15年以上通っている。その間5人の牧師が入れ替わっている。教会の帰りに遠回りをして嫌な思いを沈めたことが何度かある。この記事にも書かれているが、多くの場合に牧師は教会員を非難し、ただ叱咤激励するメッセージを繰り返している。信者がますます教会から離れてしまう。教会のことで傷を受けている。記事の中に牧師が引退するのを20年間待ち続けた信者の話が載っている。冗談とも本気ともとれる話である。

教会との関わりを持たないクリスチャンのことが雑誌の記事になるほどの現象が起きている。ただその状況を納得できる。記事にも書かれているが、教会で傷つけられたという経験は結構多くの人が持っている。教会はもう結構だと思っている。教会のことで二度と傷つけられたくないと思っている。
悲しいことである。

しかしこのような現実がありながら、教会なしには信仰が成長しない。この記事のポイントでもある。交わりを通して信仰が励まされることがない。自分よがりの信仰になってしまう。他者に対する思いやりがなくなってしまう。愛し、愛されることでの心の温まりがない。神との親しい交わりが深まることがない。

教会はどのようなことがあってもキリストの体である。キリストの信仰と御霊の愛で生かされている。
この世のもので得られない神の恵みによって成り立っている。実際には信者は教会で心からの礼拝、真実な交わり、心の触れ合いを求めている。その願いが叶えられている教会のことも知っている。礼拝で信者が満たされている。霊的な深みと広がりを持って教会が成長している。霊的な満たしが家族や友人を包み込んでいる。誘われた人たちも礼拝に出席しているだけでその教会の霊的な状態を感じ取っている。日本でもアメリカでも見ることができる。

記事には明確に書いていないが、教会の霊性は牧師の霊性に全面的に拠っていると言って過言でない。
信徒はメッセージを聞きながら、牧師の心の世界を確実に感じ取っている。説教でもっともなことを言っていても、その背後での神との隠された交わりを感じ取っている。信徒の教会との距離感は、牧師の神との距離感の現れである。残念ながら非難されるのは信徒の方になってしまう。むしろ牧師の責任である。ミニストリーをしていても同じことを感じさせられている。厳しいことである。自分の霊的な研鑽に関しては決して怠惰になってはいけないと思わされている。

上沼昌雄記


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