霊性神学序論
神学モノローグ 2005年6月6日(月)
5月半ばに京都の宇治での2回目の牧師のセミナーと、この週末のポートランドの日本人教会の聖書塾での講義で「霊性神学序論」というタイトルで学びをすることができた。「霊性神学」というテーマは、
リジェント・カレッジでは20年以上取り上げられてきているが、最近になって公に取り上げられるようになった。その辺の動向の説明も入れたレジメを用意して望んだ。
リジェント・カレッジで霊性神学を指導してきたジェームズ・フーストン師によれば、霊性神学は神学と霊性が分離しているためにその調和を計るためのものであると言う。理性とその推論で神学を築いてきたが、同時にその反動として感情的な動きが出てきている。霊性神学はその調和を計るためのものでもある。
それでは霊性神学と何かと言うというということを、聖書塾で最初に説明することになった。それは神の恵みが自分のなかでどのように働いてるのかを自分の心を聴きながら探っていくものである。恵みの世界は自分の心とは関係なしに神によってなされたものである。
しかしその恵みによって自分が変えられていく世界は自分だけのものである。自分の内なる人を見つめながら神の臨在を確認していく作業である。しかし自分が経験したことを他の人も同じように経験するとは限らない。それでいて共有、共鳴できる世界である。
それではどのように体験し、共鳴できるのかは、どんなに話をしても体験できない。それで一緒に作業をすることになった。宇治の牧師のセミナーでは、3回のセッションを自分のイメージ、妻のイメージ、キリストのイメージを雅歌を用いて語り分かち合うことをした。
ひとりの先生があとで感想を送ってくだれた。「これは、期待とは、ずれていました。しかし、帰宅後にも、意外と、セミナーの内容が、存在感が大きいものとして、自分の中に残っていました。」
このセミナーで妻を花でたとえる作業をした。2回目であった。ひとりの先生は前回には思い浮かばなかったのであるが、今回ようやく奥様の花を見いだすことができた。嬉しそうに分かってくれた。
「小雨のなかでしっとりとけなげに咲くあじさい」であった。情感豊かな思いが伝わってきた。今回はそのたとえの心を分かち合うことにした。すなわちひとりひとりが「妻を語る」ことになった。このセミナーは全員男性の牧師であったのであながち男性集会になった。自分の妻を語ることにためらいながらも嬉しそうに分かち合ってくれた。奥様たちにその様子を見せたいほどであった。
あじさいと奥様を言い当てた先生が、あとで感想を送ってくれた。「今回も思いがけない神様からの数々からの恵みを頂きました。特に私にとって導きで、家内との心のわだかまりが完全に消えて、身も心もひとつとされた思いがします。
結婚して35年にして、ようやく、『あなた方は、もはや二人にあらず、一人なのです』という御言葉の確かさを実感したような気がいたします。これも交わりの仲でお互いの妻のことを正直に言葉に出して語り合った結果だと思い、主の不思議な導きに感謝しています。」
数年前に夜お茶をいただいているときに先生が、依然ある集会で奥様が皆の前で「主人に怒りを持っています。」ということを言ったことがいまだに引っかかっていると、奥様に真意を尋ねるようなかたちで言い出した。奥様も返答には困ったようであった。
以来先生との語らいでこの事件のことがよく話題に上ることになった。そして今回「妻を語る」ことのなかで次のように言われた。「妻が怒りの感情を抱いたのは、霊性のセミナーの中で、夫が妻と霊的に深いところで交わりを持つことなしに、家の外で他の男性と心の深いところで、霊的な交わりを持って喜んでいるのを見て、無性に身勝手な男性に対して怒りを感じたというのです。そのような自分の霊的身勝手さを認め、気が付かされたとき、家内の怒りが始めて理解できたのです。」
先生が自分の霊的身勝手さを認めたことで、奥様の思いを正確に把握することができた。
わだかまりがなくなった。垣根が取り除かれた。溝が埋まった。大変なことが起こった。意図したことでも計画したことでもないが、心のなかに留まっていたことに光が与えられた。心のうめきが聞き上げられたのである。意図したことでないが、思いがけない驚きが生じたのである。
この出来事をポートランドの日本人教会の聖書塾で、霊性神学の例として話した。解答や手立てが用意されていて、それを提供するのが霊性神学ではなく、神の前にともに空の手で出ていくことで、ひとりひとりの心の渇望が聞き上げられ、満たされていく場である。時には厳しい現実に直視しなければならない。
覆い被されているものを一枚一枚はがされていかなければならない。辛いことである。霊的勇気が求められる。
自分の心の叫びを聞かなければならない。うめきに耳を傾けなければならない。自分の心を聴かなければならない。そして心の深くで神の声を聞かなければならない。神のか細い声に静かに耳を傾けなければならない。心を潜心して行かなければならない。自分の心に聴きながら、神の心を聴かなければならない。どこかで神が心に語りかけていることに気づく。心が神の導きに納得できる。
霊性神学とは、と完全に説明できなくても、霊性神学のなかで自分の心に気づき、神の取り扱いに気づく。その気づきを、他の人の気づきに耳を傾けながら、自分のなかで深め、広げることができる。
聖書塾で、みことばに文字通りに耳を傾け、そこで体験したことをさらに心で分かち合うことで、ひとりひとりが自分の心に潜心することができた。霊性神学は始まったばかりである。しかし確かな心の響きを分かち合いながら進めていくことができそうである。
上沼昌雄記
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