霊性神学序論_続き
神学モノローグ 2005年6月13日(月)
霊性神学は、自分の心に聴きながら神の臨在を確認していく作業である。視点は神の臨在感の獲得、キリストとの一体感の確認である。そのためには自分の心に溜まっているものを光に当てられながら、裸の状態で神の前に出ていく以外にない。パウロにおいて自分のみじめさを認めたことと、キリストのゆえに神に感謝をしていることが同時に起こっていることに結びつく。霊性神学は自分の心に聞くことであるが、それは単に気持ちがよくなることを求めるものではない。心の深くにある叫び、うめきに耳を傾けながら、そこでキリストに向き合い、神に対面することである。
宇治での牧師セミナーで、雅歌のなかでの花嫁と花婿のたとえでのやり取りを用いて、自分のイメージ、妻のイメージ、キリストのイメージを分かち合うことをした。キリストのイメージのことは、今回初めての試みであった。その前に、花婿としてのキリストが自分を花でたとえるとどのような花で呼ぶでしょうかという作業をして、自分のイメージを分かち会った。それに呼応する意味でキリストをイメージで語ることをした。
それはキリストを自分の世界に引き下ろしてしまうのではないかと恐れを持ちながらの試みであった。その後、堺大浜での家庭集会、ポートランドでの聖書塾でも試みた。
キリストが神の国をたとえで語っているように、霊的真理はそのまま表現できないので、たとえやイメージで語ることで意味が伝わってくる。自分の妻をあじさいやひまわりやかすみ草などで表現することで意味が伝わってくる。思い巡らしが始まる。そんな作業をした上で、キリストに関してはどのようなイメージで捉えているのかをしばし思い巡らしていただいた。数分間、目を閉じ心を静めて、自然界とは限らないで自由にイメージを描いていただいた。イメージが向こうから届いてくるのを待った。
一度この作業をしてみたいと思っていた。牧師のセミナーであったので、あとで叱られてもよいと思って望んだ。またその時点で自分のなかにキリストのイメージがあったわけでない。しばし黙想をしているときに、不思議に梟(フクロウ)のイメージが出てきた。どうしてなのかは分からない。暗闇で目を大きく開いて見守っていてくれる梟である。そのことを最初に分かってから、先生方がご自分のイメージを語ってくれた。
何でも包み込む父親のイメージあるいは大地、温かい陽ざしのようなイメージ、温かく柔らかで、何百年も生き続け、道しるべになり、陽ざしにもなってくれる大木のイメージ、目標であり、ライバルである兄のイメージ、私たちが客で給仕する者のイメージ、まなざしと手、握ってきてくださるが、時に叩かれる
手のイメージ、同じ家にいて先に経験して、相談でき、見守っていてくれる兄のイメージ、小さいときに父を亡くしているが、なんでも相談できる父親のイメージ、遠藤周作の「おバカさん」のようなイメージ。
出てきたイメージは周りがそれにコメントや解説を付けるものではない。本人がそのイメージを思い巡らしながら、なぜ自分にとってそうなのかを考えていく手立てである。聖書からキリストがどのようなお方であるのかはすでに学んでいる。心のなかで現実にどのようなイメージにキリストに関わっているのかを知る手立てである。それは千差万別である。その後の家庭集会、聖書塾でも似たようなイメージが出てきたが、その人にだけ意味のあるものである。
梟と出て、他の先生方のイメージを聞いて、そこには明るいイメージがないので落胆をした。その分思い巡らすことになった。確かに夜の鳥であるので暗い感じであるが、「私はあなたを捨てて孤児にはしない。」と言われたイエスが身近に迫ってきた。十字架を前にしてイエスは、父なる神がまさに梟のように見守っていてくれたことを体験したのではないかと想像してみた。大きな慰めをいただいた。
「君は谷の百合、明けの星、くらべうるものはあらじ。」と歌われている。比較できないお方である主に、イメージを通して近づく作業である。イメージを得た自分の心を見つめながら、イエスにより近づくのである。イメージはイエスとの身近さを確認する手立てである。イメージをいただいた心をさらに空けることで、キリストが心に住んでいてくださることに気づくことである。そのキリストで心が変えられていくことを知ることである。心の変容を体験することである。
上沼昌雄記

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