ウィークリー瞑想

上沼昌雄(神学博士)のキリスト教神学エッセー

Saturday, May 06, 2006

「痛みと苦しみの現実」

 先週末に、90歳を越えた方の葬儀に妻と一緒に出席しました。 車で一
時間ほどのロサンゼルス郊外の標高700メートルほどの山の中腹にある
街の教会でした。この方の娘さんご夫妻が、16年前に私たちが家族で北
カルフォルニアの山の小さな街に移り住んだときの教会の牧師夫婦でした。
忠実な牧会を今も別の小さな教会でされていま す。ずっと親しくしています。
この牧師の奥様で、亡くなられた方の娘 さんが癌でこの数年闘病をしてい
ます。一週間ほど前にも大きな手術を されました。それでお父様の葬儀に
も出席できないと言うことが分か り、私たちが代理のように出席しました。
 この奥様の従姉妹、なくなられた方の姪の方が日本への宣教師をされて
いました。ファミリー全体が宣教の思いを強く持たれていることが分 かりま
す。亡くなられた方の奥様で、癌の闘病をしている方のお母さんとは一、二
度お会いしています。私の名前も覚えてくれていました。お嬢さんも癌で厳
しい状態にあるなかでご主人を亡くされました。妻が後で教えてくれました。
娘が召される前に主人を先に送りたいと祈ってきたと言うことです。年齢的
にはご自分がいつ召されてもいい年です。そのかなで痛みと死の現実に直
面し、直視し、受諾しています。静けさが あり、威厳があります。

 ジョージ・マクドナルドの言葉に目が留まりました。「私たちがことの現実を
最も良く知っているときは、神を最も必要としていることに気づき、神に最も
信頼できるときである。どのようなかたちでも、どのよ うな種類でも、どのよ
うなあり方でもその容赦のない現実を認めることは、私たちの心をさらによ
り現実に向け、より高度な、よい深遠な存在へと導いてくれる。」

 しばらく前になりますが、ある男性集会でひとりの男性と知り合いま した。
奥様とお嬢さんを交通事故で亡くされ、ご自分も癌であることが分かり、厳
しい状態におかれていました。集会では痛みを覚えながら、 自分にとって
一番つらいことは父親のことですと言われました。しばらく音信がありませ
んでした。最近メールをいただいています。私のモノ ローグに鋭いレスポ
ンスを書いてくれます。教えられています。闘病は続いています。
 3月14日のメールで、映画『パッション』でイエスが十 字架を担ぎながら
むち打たれる場面が張ってありました。「痛みは投薬では納まらないので、
必死のリハビリで、歩く中、痛みが引いていま す。運動を行なうと最初は
激痛が走りますが、10分程度我慢する ことで、徐々に減少します。、、、
上の画像は僕のPCのデスク トップの画面です。毎回、PCを開ける事に
よりこの画像が、僕の痛みの何であるかを告げてます。傷だらけの痩せ
細った体で、重い十字架を担ぐ姿を見ているだけで、現在の僕はキリスト
により慰めを受けている様に感じられます。痛みを堪えて頑張らねばとの
意欲が湧くので す。今の僕に取ってはかなりの救いでもあります。」
 想像を絶する痛みが、キリストの痛みに結びつけています。どうしてそう
なるのかは分かりません。ただ痛みと苦しみの現実を見つめているときに、
キリストの苦しみが思い出させられるのです。いつもはどこかに押しやられ、
隠されているように思うキリストの苦しみの現実に不思議に心が向いてい
きます。そうでありたいと願います。「神が多くの子たちを栄光に導くのに、
彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万
物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであっ
たのです。」(ヘブル2:10)

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