ウィークリー瞑想

上沼昌雄(神学博士)のキリスト教神学エッセー

Tuesday, September 12, 2006

「存在の涙・バビロンの川のほとりで」

 レヴィナスの代表作である『全体性と無限』(岩波文庫上・下)と
『存在の彼方へ』(講談社学術文庫)をこの夏中にと思って、頑張って
読んだ。「他者」を視点に哲学を展開している。自己である「主体」を
展開する哲学に慣れているために、レヴィナスの哲学のポイントを捉え
るのに苦労させられた。しかし慣れてくるうちに、この「他者」は家族
であり、隣人であり、先祖であり、民族であり、その先の先の先にまで
遡って無限者としての神にまで通じていることが分かった。当然のよう
に通じているのである。そんなユダヤ人としての、またタルムードの解
釈者としてのレヴィナスの哲学書を読みながら、旧約聖書の系図がすん
なりと私の中に入ってきた。

 彼の哲学の方法論はフッサールに始まる現象学である。現象学は意識
の世界の哲学である。心理学ではない。哲学は伝統的には主体と客体の
二元的な展開でなされてきた。主体を中心とした認識論と、客体を中心
とした存在論である。現象学はこの二元的な展開を避けて、主体と客体
のまさにそのあいだの意識に焦点を当てている。意識はあることの意識
であり、意識している私である。このあることを「他者」と呼び、意識
している私を「同」と呼んでいる。レヴィナスによれば、ハイデッガー
は結局この「同」の世界に留まって、その存在の住処を捜し求めたこと
になる。

 レヴィナスは意識の向こう側、意識を引き出している「他者」の世界
こそが私の存在を脅かしているとみている。すなわち、意識の手前です
でに「他者」は「顔」を持って沈黙のうちに語りかけている。私はその
沈黙のこだまを聞くことである。「他者」は決して「同」には還元され
ない超越である。「同」を中心とした概念で築き上げられた「全体性」
の世界を打ち破るのがこの「他者」である。「他者」は私が何かを意識
する前にすでに隠れることなく存在している。「他者」の暴露は、脅迫
であり、語りである。

 私はこの「他者」のために開かれている。むしろ「他者」のゆえに開
かれてると言える。閉ざされない「同」としての私は、「他者」のゆえ
に、「他者」のために「身代わり」として存在している。私たちからみ
ると新約聖書の世界がそのまま展開されていることになる。父は、自分
が父でありながら父でないことで父になる。すなわち、父は息子の「身
代わり」であることで父になるという。哲学書で「父性」に出会ったの
であるが、その「父性」の延長線上に旧約聖書の系図が繋がって来た。

 彼はホロコストのことは何も語っていない。ただ『存在の彼方へ』は
虐殺された6百万の同胞に捧げられている。ホロコストを不思議なかた
ちで生き延びたレヴィナスにとって、いまあるということは6百万の同
胞の犠牲に上になっていることは避けることのできない事実である。

 私がいまあるというのは、「他者」との連綿の上に驚異として置かれ
ている。最後の最後まで私の存在である。しかし、私の前にすでに「他
者」が存在し、私の回りにいつも「他者」が存在している。私はその
「他者」のために「身代わり」として存在することで、究極的に無限の
存在である神に結びつくことになる。勿論、無限定の神はすでに語りか
けているので、開かれた私も応答することができる。神を「同」の世界
に引き寄せることは決してできない。私である「同」が無限である神の
世界に引き入れられるのである。

 レヴィナスの哲学書を読みながらどうしてか分からないが、詩篇
137篇で歌われているバビロン川のほとりでシオンを思い起こして涙を
流したイスラエルの民のことが思わされてきた。ホロコストの後に「他
者」の「顔」を思い観ながら神の語りを聞いているレヴィナスのうめき
の哲学と、バビロン川のほとりで神を思い起こしている彼の先祖たちの
悲しい詩とが共鳴してきた。存在の涙が綿々と流され続けている。その
ように存在することで神に結びついている。概念では閉じこめられない
時間の流れのなかで生きている。そんなとてつもない時間を持っている
イスラエルの民に驚異を感じている。

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