ウィークリー瞑想

上沼昌雄(神学博士)のキリスト教神学エッセー

Monday, August 14, 2006

戦争と哲学

神学モノローグ 2006年8月15日(火)

ヨーロッパでの第二次世界大戦を前後して、ナチスに荷担したドイツ人の哲学と、そのなかでホロコーストをくぐり抜けてきたユダヤ人の哲学に根元的な違いがあることに関心を持っている。共に存在への問いかけを真剣にしている。しかし一方はナチの全体主義を容認してしまうし、他方は全体主義とホロコーストを避けなければならないと訴えている。しかし政治的な訴えではなく、哲学として淡々と論じているだけである。前者はハイデッガーであり、後者はエマニュエル・レヴィナスである。ハイデッガーは大学の卒業論文として取り上げた。レヴィナスはこの数年読んでいる。

ハイデッガーの「なぜ無ではなくて、有なのか」とい問いかけは信仰者としても、当時マルクス主義哲学が旺盛の時にも、心から離れなかった。存在の外側のものを取り去って純粋な存在そのものに迫ろうとしている姿勢に惹かれた。詩の世界にまで存在の在処を求めている。しかし現実にはナチの台頭には何の抗する力も持ち合わせていなかった。実際にハイデッガーのナチとの関わりはいまだに議論の対象となっている。

レヴィナスはハイデッガーの『存在と時間』(1927)を高く評価している。しかしその存在には出口がないことを見ている。存在の純粋さと極限化を見ているが、それは「他者」を欠いた、すなわち、世界への窓を欠いた存在と見ている。「他者」は自己が無限にたどり着けない存在である。それは無限者としての神に通じるものである。自己は他のために存在している。その「身代わり」となることで存在の在処を見いだせると見ている。

レヴィナスはリトアニア出身でフランスに帰依した。フランス軍の兵士としてドイツの捕虜なる。4年間の抑留生活のあとに、彼の家族と親戚のほとんどがホロコーストの犠牲になったことを知る。1947年に『実存から実存者へ』、1961年に『全体性と無限』、1974年に『存在の彼方へ』を出し、80年代以降世界的に注目されてきている。タルムードの研究家でもある。明らかにハイデッガーを批判しているが、個人的なことではなく、哲学としての限界を提示しているだけである。紳士としての真摯な姿勢である。

基本的な批判として、西洋の哲学の全体性を取り上げている。トマス・アクィナスの神学の全体性であり、ヘーゲルの哲学の全体性である。すなわち概念で世界の全体像を築き上げている哲学の全体性が、ナチのような全体主義が台頭してきたときに観念的に容認してしまうというのである。ハイデッガーの存在の問いはヘーゲルの全体性の対局になりながら、全体性に対しては無抵抗であったと見ている。

哲学の全体性は神学の全体性に通じている。概念で世界を築いているのが哲学であるように、概念で神の世界を築き上げているのが神学があるからである。そして神学が神の代弁にもなっている。しかし現実に、ヨーロッパの神学はナチの台頭を阻止することはできなかった。むしろ全体主義を容認することになってしまった。考えてみると、西欧の神学を受け継いでいる日本の教会が同じように全体主義に対して確固とした姿勢を取ることができないで、追随してしまったことにも通じているようである。さらにそれは、いまのアメリカの保守的な神学にも通じることである。

レヴィナスはあくまで哲学として説いている。『全体性と無限』というタイトルが示しているように、「全体性」という閉じられて世界ではなくて、「無限」の神に通じる開かれた存在を視点に入れている。ホロコーストで家族を失うことを経験していながら、その神の「善」をなお信頼している。神の無限性に向けられている存在の有意義性と責任を考えている。他者のための「身代わり」としての存在に可能性をみている。

日本でもレヴィナスの研究は進んでいる。主要著書はほとんど訳されている。どこでどのようにレヴィナスに出会ったのか覚えていない。ただハイデッガー以降の現代の哲学の方向に関心を持っていたが馴染めないでいたなかで、レヴィナスのことが気になってきたのは確かである。難解であるが、戦争のこともユダヤ教のことを直接には言及しないで、それを哲学で論じていることに新鮮さと驚異を感じている。

上沼昌雄記

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